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三話 腕

「ほら」


桜は何ともないかのように言う。


湊は、桜が差し出した腕をすぐには掴まなかった。ただ、鑑賞するように、その赤黒い痕跡をじっと見つめている。


青白いモニターの光が、彼女の腕に刻まれた不規則な「絶望の年輪」を、容赦なく暴き立てていた。それは、かつて彼女の机に書かれた罵詈雑言や、誰もいない放課後の教室で浴びせられた無言の暴力の、成れの果てだ。


「……それが、君の『聖域』なんだね」


湊の声は、驚くほど低く、湿り気を帯びていた。

彼はゆっくりと手を伸ばし、桜の手首を優しく、それでいて逃げられないような強さで掴み寄せる。指先が、最も新しい、まだ生々しい感触を残す傷痕に触れた。


桜の体が小さく震える。

だが、それは拒絶ではない。自分でも気づかなかった心の最奥を、鋭いメスで切り開かれたような、戦慄を伴う歓喜だった。


「ひどい傷だ。……クラスの連中に、見せてやりたいよ。君が毎朝、どんな顔をして『おはよう』なんて無意味な記号を吐き出しているか。彼らが消費しているのは、この傷の上に塗り固められた、ただの死体なのに」


湊は、その傷口に自分の唇を寄せるほど顔を近づけた。

彼の瞳の中に、鏡のように映る自分の顔を、桜は見ていた。そこにあるのは同情でも、嫌悪でもない。自分と同じ「壊れたもの」を見つけた者だけが浮かべる、深い共鳴の笑みだ。


「……ねえ、湊くん。そこ、すごく痛かったんだよ」


桜の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

「放課後のトイレとか、体育館の裏とか……あいつらの笑い声が聞こえるたびに、こうしてないと、自分が消えちゃいそうだった。今はもう、誰も私を叩かない。みんな私を『可愛い』って言う。でも、それが一番、吐き気がするの」


「分かっているよ。彼らが愛しているのは、君が演じている『理想の桜』だ。でも、僕が欲しがっているのは、その皮を剥いだ後に出てくる、この惨めで、美しくて、救いようのない『真実』だけだ」


湊は、薄く、歪な笑みを浮かべた。

その笑みは、救いというにはあまりに冷たく、絶望というにはあまりに甘美だった。


「最高だよ、桜。この傷一つひとつに、あいつらへの憎しみと、自分への呪いを込めて書き写してあげる。君の痛みは、僕の物語の中で永遠の命を得るんだ」


彼は、桜の傷痕をなぞった指を、そのまま自分の唇に当てた。

まるで、彼女の痛みを自分の血肉に取り込むような、冒涜的で静かな儀式。


「さあ、続きを聞かせて。君がその爪を立てる時、誰の顔を思い浮かべているのか。……その一文字一文字が、僕たちの新しい、本当の世界の境界線になるから」


桜は、湊の肩に深く顔を埋めた。

無機質な部屋に、再びタイピングの音が響き出す。

それは救済の音ではなく、二人が社会という「まともな世界」から、永遠に決別するためのカウントダウンだった。

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