九話 滴
「湊、夕飯はどうするの?」
扉の向こうから聞こえる母親の穏やかな声。その瞬間、湊の意識にわずかな「日常」の隙間が生じた。メスを持つ指先が、ほんの一ミリだけ、逡巡するように震える。
「……っ!」
その隙を、桜は見逃さなかった。
拘束されていたはずの手首を、強引な力で引きちぎるように解き放つ。彼女は膝をついた状態から跳ね起き、呆然とする湊の胸元に体当たりをした。
ドサリ、と重い音を立てて、湊がベッドの上へ押し倒される。
「……ねえ、湊くん。今、あっち(日常)を見たでしょ」
桜が湊の上に跨り、彼の両手首をベッドのヘッドボードへと押し付けた。彼女の瞳は、メスよりも鋭く、冷ややかに燃えている。
「物語の途中で、よそ見をしないでよ。作者様」
彼女は湊のシャツのボタンを、引きちぎらんばかりの勢いで剥ぎ取っていく。露わになった湊の胸元は、激しい鼓動を打っていた。
桜は、湊が先ほどまで持っていたメスを、その細い指先でひらりと奪い取る。
「君が私にくれた『印』。……独り占めなんて、許さない」
桜は、自分の肩に残る赤い蝋の痕と、メスの先でなぞられた傷跡を、湊に見せつけるように指でなぞった。そして、湊の鎖骨の全く同じ位置に、メスの刃先を垂直に立てる。
「っ……あぐ……っ」
湊が苦悶の声を漏らすが、桜はそれを、自分の唇で強引に塞いだ。
母親の声が届く距離。その極限の背徳感の中で、桜は湊の肌に、自分の肩にあるものと同じ「歪な傷」を刻み込んでいく。
「これで、お揃い(・・・)。鏡を見るたびに、私を思い出しなよ」
刃先が皮膚を割り、湊の白い胸元に鮮烈な紅が滲み出す。桜はその血を、指先で掬い取ると、自分の唇に塗りつけた。
「君の書く物語じゃ、私は『エサ』だったかもしれない。でも、この部屋(現実)では、私が君を支配する。君の身体に、私の名前を書き込んであげる」
桜は再び、湊の耳元で囁く。その声は、震えるほどに甘美で、狂っていた。
「……ねえ、湊くん。お母さんに、返事をしてあげなよ。今の、最高に無様で、最高にエロい声で」
湊は、激痛と快楽の濁流に呑まれながら、絶望的な恍惚の中で桜を見上げた。
自分の刻んだ傷と同じ痛みが、今、絆となって二人を地獄の底へと繋ぎ止めている。
「……『いらない』って……言うよ。……僕には、君以外の……栄養は、必要ないから……」
湊の声が、震えながら扉の向こうへと消えていく。
二人の血が混ざり合い、シーツに黒ずんだ染みを作っていく。
それは、どんな文字よりも雄弁に、二人の破滅的な契約を綴っていた。




