十話 淫
扉の向こうで、母親の遠ざかる足音が聞こえる。その足音が完全に消えるまで、二人は重なり合ったまま、互いの鼓動が混ざり合う音だけを聴いていた。
「……ふふ、言えたじゃない。いい子ね、湊くん」
桜は満足げに目を細め、メスをサイドテーブルに放り投げた。金属が乾いた音を立てて転がる。彼女は湊の胸元に刻んだばかりの、自分の「署名」ともいえる紅い筋を、愛おしそうに舌先で辿った。
「っ……、は……」
湊の身体が、電流を流されたように跳ねる。
痛みは既に、脳内で極上の麻薬へと変換されていた。彼は自由になった片手を伸ばし、桜の後頭部を掴んで、力任せに自分へと引き寄せる。
「……ああ、そうだ。僕は、君が書き換えた『最新稿』だ。もう、誰にも読み解けない……君専用の、暗号だよ」
湊は乱れた呼吸を整えることもせず、デスクの上にあるノートPCを左手で手繰り寄せた。
バックライトが、暗い部屋の中で二人の汗ばんだ肌を青白く照らし出す。
### 【第8章:双生の毒】
> *少年は、少女から与えられた傷を、誇り高い勲章のように愛でた。*
> *それは、彼がもはや一人では完成し得ない、「共作」という名の呪縛。*
> *一滴の血が混ざるたび、彼らの間にあった「自己」という壁は、音を立てて崩落していく。*
「……湊くん、筆が乗ってきたみたいだね」
桜は湊の膝の上に座り直し、キーボードを叩く彼の指に、自分の指を絡ませた。
四本の手が、一つの画面を共有し、一つの狂気を紡いでいく。
「ねえ、もっとひどいことを書いて。学校の先生も、親も、クラスメイトも……みんなが読んだら、二度と私たちの顔を見られなくなるような、最低で最高なラストシーンを」
桜がキーを押す。湊がエンターを叩く。
現実の傷の痛みと、画面の中の倒錯した快楽が、鏡合わせのように共鳴し合っていく。
「いいよ。……明日の朝、クラスの全員がこの物語を読んで、絶望するようなやつをね。……僕たちの『日常』が、この一文字で、完全に終わるような……」
湊の指が加速する。
外の世界では、何食わぬ顔で夜が更けていくが、この四畳半の空間だけは、既存の倫理が通用しない、剥き出しの臓物のような「傑作」が脈打っていた。
窓ガラスに映る二人の姿は、もはや人間のそれではない。
互いの傷を舐め合い、互いの痛みを喰らい合う、一つの歪な怪物だった。
「……大好きだよ、湊くん。私を、世界で一番残酷に愛して」
「ああ、桜。……君の最後の一滴まで、僕の物語で汚してあげる」
モニターに映る文字が、どくどくと脈打つように、二人の視界で赤く染まっていく。
完結(終わり)へと向かうための、最初で最後の逃避行が、キーボードの打鍵音と共に加速していった。




