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カツン。
わざと立てたような足音が床を叩いた。スティアの視線が音の方角にそれ、リリィも釣られてそちらを見た。来た道とは真逆の、二階に通じる下り階段前。下からやって来た一人の男が立っていた。
金髪にサングラス。ダイヤの指輪のネックレス。すらりとした長身に、白のトレンチコートがよく映えるが、その生地の裾には、先ほどはまるで見られなかった煤汚れが見てとれた。
「スティア・アリビートか」
誰が反応するよりも早く、セイがぽつりとつぶやいた。その声を耳にしてリリィは違和感を覚える。サングラスが顔の大部分を隠しているので、彼の表情はきわめて読みとりづらいが、この場に似つかわしくない声だと感じた。気まずさのような、落胆のような……
倒れたテッドや、破壊された壁のそばに立ちながら、これだけ派手に味方を傷つけられながら、奇妙なことにセイはスティアを見ていた。
「……ずいぶん、痩せたんだな」
スティアは、答えなかった。
階下からもう一人分の足音が響く。警棒を構えたエルクが、セイを追いかけて昇ってきていた。
エルクの登場を合図に、ロビーを囲う通路の両側から、警備員がばらばらと飛び出してきた。リリィたちが立つ場所を包囲して、ざっと布陣を取る。
(増援)
絶望的な悪寒と共に、そんな認識が浮かび上がった。いや、そもそもテッドに指揮権が戻ったという放送が本当だったかはかなり怪しい。スティアに相対したエルクが、リーダーに報告にあがったうえで、テッドを囮に様子を見ていたのかもしれない。
新しく召集された人数は、全部で五人。もともといた警備員と合わせて八人。セイとエルクを含めれば十人になる。倒れたテッドを数えれば十一だが、ここまでくれば一人くらいは勘定に入れずとも同じだった。――増えすぎだ。
当たり前だが、こちらは相変わらずのふたりきりである。四対二の状況ですでに攻めあぐねていたのが、最悪の状況になっていた。
気づいていないのか、あえて無視しているかは分かりかねたが、包囲の中心に立ったセイとスティアは、周りのすべてを視界に入れずに、見つめあっていた。騒ぎの中心地で、台風の目のように、静かに。
「できれば」
セイが、唇を薄く開く。
「君には二度と会いたくなかった」
「あんたに」
対するスティアの声を聞いて、リリィは驚いた。
スティアはセイを強く睨んでいた。常に涼やかな態度を崩さなかった彼の表情としては、少なくともリリィにとっては、驚くべき種類のものだった。
テッドに向けた軽蔑とは質が違う。憤怒よりも怨恨に近い気がする。短いつきあいの中で把握した、スティア・アリビートという人間の印象を変える程度には、まるきり想像外の憎悪だった。
「あんたにだけは、そんなことを言われる筋合いはない」
唾棄するようなスティアの言葉に、セイはむなしく息をついた。その嘆息を打ち消すように、大仰な動作で片腕を広げた。
「特権により、これより特別措置の施行を命じます。この二人の身柄を確保してください」
セイの声から、気遣うような穏やかさが消えた。口調こそは丁寧なままだったが、余計な迷いはすべて捨てたとでも言わないばかりに、きっぱりとしている。
「無傷が望ましいですが、状況からそれが可能と思えない。命を奪わない範囲で、あらゆる武器の使用を許可します。今より作戦終了までの間に起きた全ての被害へ、本社の名の下に、補償を約束します」
そしてセイは視線を転じた。テッドを介抱している警備員に。
「ろくな事情の説明もなく指揮系統を乱し、あなた方を混乱させたことは謝罪します。ですが間違えないで下さい。銃器と凶器を持ち出して、先に手を出したのは彼らだ」
スティアは、嘲笑した。
「先手で誘拐なんてしでかしたのは、どっちだよ」
「リリィ・ブルーノはここの生徒として登録されている。上官に召集されることは不自然ではない。レアリス・カンパニーなら、そういうことにできる」
セイは冷静に断言した。
「それが分からない君じゃないだろう」
セイはサングラスに手をかけた。無造作に、ずっと身につけていたそれを、外す。
ざわめきこそ走らなかったが、動揺の気配が警備員たちの間を、さざ波のように伝った。リリィもまた、驚いた。――そしてこれまで忘れていた、〈教区〉で気絶する間際に見たものがなんであったかを、はっきりと思い出した。
セイの素顔は、服装や立ち居振る舞いから想像していたよりは、平凡だったとも言えた。整った眉の形などが、背格好と同様の清潔感を醸し出してはいるが、顔立ちそのものに、特別なものがあるわけではない。
だが、それら全てを打ち消す特徴が、右目に集中していた。
眼球に、色がない。
左の瞳は空色だったが、右目は、瞳と白目の境界が分からないほどに真っ白だった。充血の痕すらない、純白のビー玉でもはめこんだようだった。涙の分泌による潤いからも、隔絶されている気がする。
眼の病気だと仮定するには無機物的だった。義眼かもしれないが、彼のように服飾に金をかけていることが一目で分かる人間が、あえてこんな色を選ぶとも思えない。
何より、リリィは〈教区〉でこの瞳に覗き込まれた途端に、意識を失った。
白い瞳から、視界全体、心の中まで白く染まっていくような感覚が、体の自由を確かに奪って、あっさりと気絶に導いた。今になってはっきりと、思い出した。
「彼らの武器は、銃だけじゃない」
辺りの動揺の気配はまるで無視して、淡々とセイは続ける。折り畳んだサングラスを、コートの内ポケットに引っかけながら。
「得体の知れない力を使います。それは私ができるだけ食い止めます。だから」
突然、スティアが機械の右手を、セイに向けて突き出した。
赤く光るランプの先で、不可視の何かが放たれたのが、動作で分かった。先ほど、照明をショートさせた時の動作と同じだ。だが結果はまるで違った。
攻撃はセイに届かなかった。彼がその目で一瞥すると、見えない衝撃が弾けて分散した。暖房のような熱風が余波となり、床を伝って四方に弾ける。警備員たちはわけがわからず、きょとんとした。リリィも同様だ。
スティアはリリィの服を右手でくいと一瞬だけ引いた。その手にテッドを火傷させたような熱はなかった。冷却する時間があったとも思えないのに。
「逃げるよ!」
返事をする暇も与えてくれず、先に駆けだした。唯一、包囲を免れた方向。すなわち、来た道である昇り階段。
リリィが追いかけるより早く、セイの後ろに控えていたエルクが走り出した。彼の手の中で、鉄でできた警棒が電灯をわずかに反射した。――リリィはとっさに割り入って、銃のトリガーに指をかけた。床を狙って、引く。
手のひらに残る衝撃の重さに、我に返る。エルクは、確かに威嚇に怯んで、驚愕の表情で追跡を止めたが、リリィは自分の軽率な判断が信じられなかった。
また、銃弾を無駄にした。
人間を相手の喧嘩に、当てずっぽうに。
「早く!」
上から発破をかけられて、肩が縮まる。ぐずぐずしている暇はない。リリィはとにかく必死になって、スティアを追った。
スティアは四階のロビーで階段から逸れ、壁沿いの通路側に逃げていた。突き当たりで、足を止めて振り返る。威嚇射撃が効を奏したのか、追っ手はまだ来ない。
リリィが追いつくと、スティアの顔が疲労と苦痛に歪んでいるのが分かった。乱れた息づかいに合わせて、肩が弾んでいる。――ここで立ち止まったのは作戦ではなく、ただ単に、体力が限界なだけか?
絶望的な気持ちで彼を見やるが、スティアはこんな状況でも態度を変えない。息を切らせながら、あくまで毅然とした表情は崩さずに、かすれた早口で言った。
「セイ・ホワイト」
「え?」
「あいつの名前。絶対に偽名だよね、ふざけてる……ってそれはいいとして」
スティアは言いながら、もう一度視線を投げて、追っ手の有無を確認した。追いかけてくる人影は、まだない。
彼は壁から背を浮かせて、ふらふらと頼りない足取りで、歩きだした。
ロビーから離れ、通路を窓に沿って進む。意識して見やれば、狭いうえに柱が多い場所だった。障害物の多さは、混戦を少人数で抜けるには利になる。体力のなさは置いておけど、戦闘におけるスティアの判断は理にかなっていた。無茶こそ多いが。
「あいつは、右目で、アニマを自在に制御する。俺の技は、ほとんど無力化されるし、たぶん銃も防がれる」
「え?」
「小火の鎮火が思ったより早かったな。あいつ、やっぱり手加減したか……」
独り言のような事情説明の上で『あいつ』の数が増えてゆく。リリィが混乱しかけた所で、スティアは足を止めた。窓枠に背中を預けて、息を整える。
彼の背中ごしに開けた窓からは、グラウンドを囲う木の頭の葉が微かに見えた。飛び降りて逃げられるような高さではなさそうだ。
「あいつには勝てない。なんとか逃げながら、やり過ごさないと」
「勝てない……って」
「相性が悪い」
弾んだ息を整えながら、スティアはゆっくりと答えた。
「特技の全部を封じられるわけだから、相手にするだけ無駄だ。幸い、視線が届かない所では、こっちも魔法が使えるから。隠れながらうまくやるしかない。それはいいんだけど……」
「けど?」
「面倒なミスが一つ。テッドが〈イエロー〉を持ってた」
悔しがるというほど大げさな動作も見せずに、淡々と言った。
「さっき胸をポケット探った時に、見つけた。うまく取れないでいるうちに殴り飛ばされたからそのままだ。なんとかして奪い取らないと」
「じゃあ、戻るの?」
「……いや」
スティアは否定して、すっと目を細めた。左右に動く瞳。
「さすがに、敵がそうさせてはくれないかな」
彼の視線をたどる。細い通路の両側から、気配を殺していた警備員が一人ずつ迫ってきていた。――挟み撃ち。
リリィは銃を構えようとしたが、通路の狭さに気づいて躊躇した。むやみに外そうとすると、敵にも味方にも危険だ。そして、敵はそろそろ、こちらの甘さを理解しているだろう。
頭が回らず混乱していると、隣から声が聞こえた。
「壁際でできるだけ低くしゃがんで、耳、塞いで」
まさに敵が迫っている時にそう言われ困惑したが、スティアは心の準備を待ってなどくれなかった。壁と窓を背にして、通路全体をなでるように右手をさっと動かす。そして。
スティアの指が空を切った瞬間、背後の窓ガラスが一斉に割れた。
一枚や二枚ではすまない硬質の破壊音が重なって、不協和音が鼓膜をつんざく。食器棚を丸ごと倒したような音量に、リリィは音を訊いてからしゃがんでしまったことを後悔した。だが、目の前に広がる光景が、そんな感情を吹き飛ばす。
割れたガラスの向こう側から、緑色の何かが大量に飛んできていた。弾丸のような勢いで、一直線に。
援護射撃でも呼んだのかと思うようなその光景だが、弾薬ではなかった。もっと見慣れたものだった。
(葉っぱ……?)
木の葉が、一枚一枚それぞれ意志でも持っているかのように、一直線に飛んでいる。
直撃を食らった警備員が悲鳴をあげた。制服を切り裂いて、その下にある肌に到達するほど深く、切り傷が刻まれてゆく。その光景を見てリリィは、すべての葉が刃物のような性質を持っていると見当をつけた。ずたずたに裂けた傷口から、血の臭いが噴き出した。
「風が〈グリーン〉なのは、俺が森育ちだからなんだよ」
リリィに向けたとも、警備員に向けたともつかない声で、スティアは言った。
「強風が吹くと梢が揺れる。ときどきは葉っぱが飛んだりする。そのイメージが染み着いたから、俺が風をイメージする時に浮かぶのは、森の色なんだ」
スティア自身は無傷だった。よく見れば、彼が立っていた場所の窓ガラスだけ割れていない。だとしても、多少の巻き添えは食らっていそうなものだが、自分で自分を傷つけないように制御ができるのだろうか。
「だから、原理としてはむしろこっちが基礎なんだろうね。……緑色のものを、イメージ通りに動かせる」
彼はふらついたままの足取りで、警備員に近づいた。一人はどうにかこの場を離れたようだが、まともに食らったもうひとりは、足をやられたのか膝をついていた。痛みに歪んだ表情に、焦りが浮かぶ。
握りしめていた警棒を、やけくその体で振るってくるが、スティアですらも、ひょいと後退するだけでよけることができるほどに、力ない動作だった。そのまま、スティアは警備員の弱った手から、警棒をもぎ取る。
敵の驚きを確認することもせず、スティアは両手で棒を振りあげて、容赦なく振り下ろした。鈍い音。
警備員が白目を剥いて転がるのを見届けながら、スティアは息をついた。しゃがみこんだままでいたリリィの方に歩み寄り、持っていた警棒を、差し向けてくる。
「使えば? 銃より、こっちの方がやりやすいでしょ」
リリィは、抜けない驚愕を表に出さないように努力しながら、立ち上がった。まだ鼓膜の様子がおかしく、音が少し聞き取りづらい。
「あなたこそ、武器持ってないのに」
「俺の力じゃ、これを持ち運ぶのはちょっと重い」
情けないことを堂々と断言しながら、彼は苦笑した。
笑い返す気にはなれず、リリィは警棒を受け取った。ステイアが言うように軽くはないが、腕力で男に勝てない自分が振り回すには、ちょうどいい重量だと思った。重さはそのまま威力になる。リボルバーを腿のホルスターに収めた。代わりに棒を構えると、先ほどよりどこか安心できた。このサイズなら、ホルスターのベルトにねじこんで収納することもできそうだ。棒術を専門にしたことはないが、護身の基礎知識として、故郷で長い武器の扱い方を、簡単に習ったことがある。
「追撃が来る前に移動するか。セイが来たら今の技は使えないし、これ以上窓辺にいてもしょうがない」
足取りはかなり頼りなく、顔色も悪い。
あまり魔法を使いすぎても、体が衰弱する。彼はそう言っていた。
「今の技は切り札のひとつだったんだ。手の内がひとつバレちゃったし、どうするかな。一番マズいのは、囲まれてフクロにされることだけど、どうしたら避けられるか……で、どうしたらテッドの所に行けるか」
つぶやいてから、顔を上げて、こちらに訊いてきた。
「医務室って、確か一階だったよね」
「え? ……うん」
リリィは頷く。昼間に学校を案内した時に、確かに軽く説明はした気がするが、そんな所まで覚えているとは思っていなかった。
「そっか」
スティアは何かを考えているようだった。その横顔に向けて、リリィは、そんな場合ではないと理解しつつも、思わず声をかけていた。
「……ねえ」
逃げる際にポケットに入れたものを取り出して、掌の上に載せてスティアに見せる。先ほど手渡された、ガードライセンス。
父親の名前が刻まれた、シルバーのプレート。
「これは、なに?」
スティアは、ああ、と納得してから、ふっと息を洩らした。表情が和らぐ。
「さっき説明するつもりだったけど、時間がないからね。あとで話すよ。……あんたが持ってて」
そう言われると、それ以上の言及はできない。
とりあえずはホルスターの収納ポケットにしまった。空いていたポケットが、これまで「お守り」をしまい続けていた箇所だけだったのが皮肉に思えた。その時。
スティアの背後で、忍び寄った人影が腕を上げた。勢いよく振り下ろされる警棒と、骨に響くような鈍い音。一瞬の出来事だった。
リリィの立つ位置に、スティアの体が倒れてくる。受け止めながら、彼の肩越しに襲撃者を見た。エルク。
接近に気付かなかったのは、鼓膜が麻痺していたからだと、遅れた理解が、背筋を凍らせる。エルクがそこまで計算していたのか、単なる不幸な偶然かは分からなかった。それよりも。
リリィは困惑した。スティアは自立をしようとしない。人間ひとりぶんの重みが、離れない。
そっと顔を覗き込むと血の気が引いた。たった一撃で、きれいに気を失っていた。
「……リリィさん」
エルクが警棒を構えなおして、こちらを見る。凶器を手にしながら、教鞭をとる教師のような気楽な造作だった。なのに微塵も隙がないあたりが不自然で、底が知れない。
スティアの気絶を好機と見たか、通路の両側から、数名の警備員が布陣をとった。そして、階段側の通路に、セイ。
「大人しくしてくれれば、危害は加えないから」




