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扉を開けると、一続きに一望できるフロアのすべてが、明々とした電灯で照らされていた。
先ほどスティアが壊した照明は消えたままだったが、吹き抜けの構造のおかげで、それを差し引いても館内のすべてが不自由なく一望できるようになっていた。
計算通り、とスティアがつぶやくのが聞こえた。照明を不安定にすれば、電気の供給が強化されるに違いないと踏んでいたらしい。薄暗い校舎で走り回ることは、敵味方双方に利を生まないと、彼は断言した。
先ほどの派手なパフォーマンスのほぼ全ては、敵を混乱に招くための陽動であったと言う。深い意味はないが、彼が敵だったら厄介だったかもしれないと思った。どう見ても弱そうな油断を誘う外見のくせに、布石をばらまくことを怠らないのだから。
身を乗り出して一階を見ると、たむろしていた事務員がいなくなっていた。これもスティアが言っていたとおりである。その場から離れ、階段に向かう。
「へえ」
長い階段から、三階のロビーに近づくと、感嘆の声が、不快な歓迎をくれた。
指定した通りの場所で待っていたテッドは、降りてくるリリィらにむけて、舐めきった笑みを浮かべていた。
「想像してたのとちょっと違うな。君がスティア・アリビートか」
ロビーとは言ったが、広さがあるわけではない。渡り廊下を、正方形に近くなるほどの幅に拡大しただけの床の上に、ベンチをつけた程度のスペースだ。五階から下の各階に同じように設えられたそれらは、今リリィが降りているような細い階段でつながれており、ロビーそのものでさらに巨大な階段を模すように、一階までスライドしていた。空中に築かれていることもあり、階段以外の隅は、曇りガラスの壁で囲われている。
テッドはそこに立っている。先ほどと変わらない、動きにくそうなスーツ姿。武器の類を持っている様子はなかった。少なくとも、見た目に分かるものは。
ひとりきりではあったが、伏兵がいない道理もない。三階の構造も、これまでと変わらずロの字型の吹き抜けであり、階下に面している場所には壁がある。警備員やガードが隠れる場所などいくらでもあった。わざわざ隠れさせる意味はなさそうだが。この男ならば趣味でやりそうだ。
思索しているうちに、階段を降りていた足が三階のフロアを踏んでいた。止まって、リリィは前をにらむ。
テッドはリリィを見ていなかった。後方にいるスティアを見つめている。
「はじめまして」
友好的な調子で、挨拶を投げかける。
「俺が、今のリリィの父。テッド・リオさ」
「よかったね」
スティアは、三階に降りるより少し上の段で足を止め、どうでもよさそうに吐き捨てた。テッドは肩をすくめる。
「年長者に向けてその態度とは、今の若いのは本当に礼儀を知らないんだな」
「いい年してままごと遊びに夢中なおっさんに、そんなこと言われてもね。あんた、俺のことも知ってるんだ」
「当然だろ。君は重要な参考人だ」
テッドは挑戦的に笑った。
「銀髪碧眼の兄妹なんて、接近にさえ気づけば、人を使って早急に見つけだすなんて容易なんだよ」
「そりゃそうだろうね。そうやって権力自慢をしてくれるわり、現場に通信機を落としたことに気づかなかったり、ここまで侵入を許すあたりが間抜けだけど」
「本気で言っているなら哀れだな。セイみたいな偽善者が、わざわざ強引にリリィをさらった意味が分からないか?」
リリィは、目を見開いた。
「もちろん、早急に〈イエロー〉を回収する必要もあったのも本当さ。同時に、敵をおびき寄せる最適な手段でもあったのさ。ここまで侵入はできただろう。だが、もうここから出られない」
スティアは表情を変えない。
絶望的な言葉を突きつけられながら、まっすぐにテッドの目を見て、何も言わない。
「気づいていないわけではないだろう? この学校はガードの養成施設であると同時に、ビースト対策の要塞であり、さらにカンパニーの秘密事務所でもある。内側も外側も警備は万全さ。お前たちは袋の鼠なんだよ」
リリィは、これまでテッドと交わした会話や、スティアが話した言葉を思い返す。つまりリリィは、体のいい囮であり、人質にされていたということだ。
スティアは平然としていた。
「なるほどね。彼女を利用して宝石を手に入れて、また彼女を利用して俺を捕まえて、で、利用し尽くした後に捨てるつもりだったんだね」
テッドは不愉快そうに目を眇めた。スティアはその眼差しにもまるで怯まなかった。
「レアリス・カンパニーなら、行方不明者のひとりやふたりを増やすことくらい簡単だろう。あつらえ向きにガードの候補生だ。あんたらなら、すべてをビーストのせいにできるもんな。いつもみたいにさ」
流暢に大胆な断言するその声に、リリィの方が硬直した。
「大昔、災害の混乱に乗じたドサクサで、反乱分子の粛正を行ったのはエンパイア黎明期のメビウス帝だっけ? 俺は歴史に詳しくないけど、今のレアリス・カンパニーがやってることは、その猿真似なんじゃないかって思うよ。〈グランド〉も〈セカンド〉も、人の手におえないって意味では、大陸史上最悪の自然災害だ。混乱を利用しながらきれいごとを並べて、何食わぬ顔で情報を遮断して、内部の不満をなんとか押しつぶして。そうして外界と切り離された多くの人間は、情報収集能力において無力化されてる。今のあんたらは、どんな派手な悪事だって隠蔽できる」
「聞いていた情報より、おしゃべりだな」
テッドは鋭く口を挟んだが、スティアは決然と無視した。
「自然災害で発生したビーストの脅威ですら、あんたらにしてみれば、チャンスのひとつでしかなかったんだろう。凶暴化した獣や活性化した森は、天然の牢番だ。〈シェルター〉で安全を作るふりをして、町のひとつひとつを牢獄に仕立てあげる。飛び交う情報の全てを、保護するふりして制御する。そのまま正義ヅラで治安管理のポストと握手して、ゆくゆくは政権でも取ろうってんだろ。あんたらが抱える、とっておきの秘密兵器サマがいる限り、どんな危険も予知できるもんな」
言葉を切って、彼は息を吸った。
そして、驚くほど大きな声を出した。
「ガードも警備員も、そんな事情とは関係なく、鼻先の給料に釣られて働いているだけだろうしね!」
叫びのような声が、吹き抜けの校舎全体に反響する。
彼らしからぬ大声に、リリィは今までの台詞がテッドに向けられたものでないことに気づいた。
それは、リリィに向けられたものだった。あるいは、どこかに配置されているであろう警備員に。帰りそびれたかもしれない事務員に。聞いているかもしれない、バイトのガード候補生に。
闇雲に動いていた全ての関係者に、スティアは現実を突きつけた。
「……本当に、おしゃべりだ」
テッドは怒りの色を隠そうとせずに、低い声を出す。
「お前みたいなガキには分からない。大人って生物は汚いんだ。大なり小なり、そのくらいの覚悟は背負って生きてる。説教したって無駄だよ」
静かに、まっすぐにスティアを睨みながら、続ける。
「どんなに不透明だとしても、今の大陸は、俺たちカンパニーがいなくちゃ回転しない。カンパニーが世界を救っていることは、厳然たる事実だ」
「別にそれを否定するつもりはない。だけど」
元のような声量で、スティアはきっぱりと告げた。
「俺や彼女の人権を犠牲にすることが、世界の救いとやらにつながるほど大きな事業とも思えないね。抵抗して何が悪い」
「お前はともかく、リリィを犠牲にするなんてとんでもないな」
テッドは冷たくそう言い放ってから、うっとりと視線をリリィに向けた。
「リリィには手厚い保護の措置を施しただけさ。いずれは正式にカンパニーの社員として働いてもらうことになる。本人がどんなに嫌がっていても、上がなんとか、時間をかけてそうするさ」
「ふっ……」
ふざけないでと、反射的に叫びかけたが、スティアの声が重なってそれを制した。
「あんたらが彼女に執着する理由が、さっぱり分からない。〈イエロー〉はもう盗んだんだろ」
「盗んだとは人聞きが悪いな。メールで頼んで、リリィに持ってきてもらっただけじゃないか」
涼しげに笑いながら、テッドはぬけぬけと言った。
「俺個人の感情は置いておいても、リリィはレイバ・グリーニッシュの唯一の縁者だからな。組織として、取引のカードとして、保護する理由は十分にあるだろう」
「保護じゃなくて拉致って言うんだよ。そういうの」
「そうかもな。でも、時間はかかるだろうが、リリィもずっとここにいればきっと納得するぜ。レアリス・カンパニーの一員になるってことがどれほどのメリットを持つか、いずれ分かるはずだ」
リリィは好き勝手言われながら、その会話を聞いていることしかできなかった。一方スティアは、訳知り顔で嘲笑した。
「もし、彼女がそれで納得をしたとしても、やっぱり意味がないと思うけどね」
「何?」
「あんたらはレイバの性格を知らないから、仮説がとんちんかんなんだよ」
あるいは自嘲のような、空しさをはらんだ声。
「あいつは好奇心でしか動かない。親愛や友情、家族愛ですら関係ない。冷たいんじゃなくて、関係がないんだ。誰にだって平等に手を差し伸べるし平等に見捨てる。親友だろうと恋人だろうと、血縁だろうと」
言葉を投げられたテッド以上に、おそらくリリィは衝撃を受けた。
八年前に聞いた言葉が、瞬間的に脳裏をよぎる。〈グランドクロス〉に恐怖する中で、レイバと話した最初の電話。父を見捨てるような、冷淡な発言。
――的確だった。スティアの言葉は、リリィが漠然と感じていながら、言葉にしかねていた部分を形にしていた。
当然だが、テッドには理解ができなかった。目に見えて不機嫌になる。
「リリィに、人質としての価値はないって言ってるのか?」
「ああ」
「ならばなぜ、彼女を助けに来た」
「〈イエロー〉が必要だからだ」
「俺たちが混乱している隙をついて、現物だけ奪えばいい。人質を助けるリスクを負う意味がない」
「内部の様子を把握できないし、一人でいるよりは二人でいる方が心強いし、見捨てる理由もない」
スティアはひとつひとつの質問に断定を重ねる。だが、テッドは不信を隠すことなく、やぶにらみの目つきを崩さない。
「本当にそれだけか?」
「…………」
「今のお前は、ずいぶん機嫌が悪そうに見えるけどな」
リリィは思わず、スティアに視線を投げる。
階段の三段ほど上からテッドを見下す彼の瞳や表情に、あからさまな怒りはない。
だが、静かだった。
昨日から今日にかけて、常にまとっていた穏やかな気配もろとも、全ての感情を沈めてしまったようだ。
そして。
指摘が、封印でも解いたかのように。
「……その質問への答えの代わりだ。こっちからも問わせろよ」
押し殺した怒りが、低くうなる。
美しい碧眼が、強く燃える。
「あんたはなんで、わざわざメールを使って『ガイル』を名乗ったんだ」
リリィは瞠目した。
スティアに父の名前を教えた覚えはない。よしんばメールを見られたのだとしても、登録した名前は「父さん」でしかないはずだった。レイバが話しただけにしては、名前を転がす調子が、ひどくスティアの声に馴染んでいた。まるで昔からの知り合いであるかのように……
テッドは一瞬だけ驚いたのち、頰を笑みに歪ませた。
「そんなことを気にしていたのか」
小声で納得を示し、次いで声を高らかに響かせた。
「あえて言うなら、お前が今言った全てのことが理由さ。レアリス・カンパニーが退屈だったんだ。この世界の仕組みや、俺の仕事が退屈だったんだよ」
愉悦が不気味な皺となって、その口元を深く刻む。笑みに細めた瞳が爛々と輝いていた。
「リリィ・ブルーノを保護して、カンパニーに所属させる? そんなことができるわけがない。ガイル・ブルーノが死んだ時点で、彼女の不信を回復させることなんてできやしない。だけど組織は本気でそれができると信じて、作戦を練っている。……くだらない。冗談じゃない。そんなことをするなら、いっそのこと傷つけてしまった方がいいんだ。その方が、俺のかわいい娘はいい顔をしてくれるに決まってる」
自ら述べた高説を全否定しながら、破壊の快感に酔っているようだった。
「現実に抵抗しているのは、お前らガキどもだけじゃないさ。ただ俺はもう少し手軽な方法をとった。それを大人の世界ではストレス解消って言うんだよ。その手段として、ガイル・ブルーノを名乗るのはこれ以上なく有益だったんだぜ。あらゆる情報の中心にいながら、本人は死んでいて、その死を公表されていない。俺が計画したイタズラの隠れ蓑にするには、最高だったね」
「……イタズラ」
スティアが低く反復する。テッドは雄弁に肯定した。
「ああ、そうだよ。父親のふりをして娘とメールを続けるのが趣味だった。リリィの無知さが可愛くて、それを思うままに操縦するのが楽しかったんだ」
テッドはスティアに向けていた目線をちらりとリリィに寄せる。気色悪い微笑み。……内側から、熱を感じた。嫌悪と憎悪が燃え盛って、胸の奥が痛かった。
それを意識した時だった。
スティアが、くるりと背を向けて、降りてきたばかりの階段を登っていた。一段、二段。
テッドも不意を突かれたのだろうか、会話の応酬が止まる。スティアの歩調は逃げ出そうとするでもなく、のんびりとしていた。見上げねば目が合わなくなるほどの高さになって、ようやく身体ごと振り返った。
彼の右手首がわずかに動く。腕を身体の横に垂らしたままで、手のひらだけを後ろに向けている。
手の甲にある、緑色の光が小さく見えた。
「リリィ、左」
ちょいちょいと左手を動かして、そんなことを言う。リリィは意味が分からずにきょとんとしたが、ほとんど反射的に立ち位置をそちらにずらした。そして。
――後ろに向けたスティアの右手が光った。同時に音が鳴った。
「⁉︎」
爆発的な風圧に飛び乗って、床を蹴ったスティアは常軌を逸した速度で飛んだ。立ち尽くすこちらの右上をいつ越えたのかも分からない速度で、テッドの方角。狙い違わず胸板に靴が激突した。鮮やかなフォームのドロップキック。
テッドはすさまじい形相で吹っ飛んだ。音を立てて仰向けに倒れる。
強力な風圧と、一階分にも近しい重力を味方につけてしまえば、十キロや二十キロの体重差などに意味はなかった。スティアは衝撃をテッドの体に押しつけるようにして体勢を整えた。屈んで、動けずにいる胸ぐらを掴みあげる。
リリィはそこまで見届けてようやく、自分の身体が完全に停止していた事に気づいた。しかし、自覚した後も、動けなかった。これでは「守って欲しい」も何もない。
体重や腕力で負ける相手に勝ちたいのならば、他のことを味方につけるしかないし、体力に自信がないのなら、先手を取るしかない。正しい判断である。正しい判断ではあるが。
それが「喧嘩ができない」ときっぱり宣言した人間の思考だとは、とうてい信じられなかった。
スティアがテッドの胸ぐらを掴みあげたのは、怒りの衝動などではなかったらしい。そこを視点に、スーツの内ポケットに片手をつっこみ、隠し持っているものがないか調べている。まるきり追い剥ぎだった。迷いがない。
倒れてうなだれたままのテッドの様子は、リリィからはよく見えない。最初の一撃で失神していたとしても驚くべきではない展開だった。いや――
スティアが服を調べるのに夢中になっている傍らで、テッドの拳が握られるのを、リリィは見た。
「! スティア!」
警告は間に合わなかった。テッドの拳が、横殴りにスティアの顔を突き飛ばした。
攻撃を受ければ見た目通りに脆かった。スティアは、なにかの冗談のように軽々と殴り飛ばされ、左手を床につき完全な転倒をぎりぎり避けた。だが立ち上がることも出来ないまま、右手を頬と鼻の間に当てていた。かなり攻撃が響いたのだろう。
半身を起こしたテッドの視線が、スティアの右手で止まる。緑色の不審な光を発見したのだろうか。
「……その、右手か!」
跳び蹴りのショックがまだ抜けきっていないと分かる、壮絶な声。
「こいつの右腕を折れ!!」
物騒な命令に戦慄する暇もない。隠れていた他人の気配が、フロア全体で複数沸き上がるのを、リリィは肌で感じていた。
スティアはまだ起きあがれそうにない。リリィは彼の傍に駆け寄った。ロビーの真ん中に位置するリリィに対して、敵は両側から接近していた。ざっと視線を向けた限りでは、警備服を着た男が左から二人、右から一人。
ひとりであしらえる人数ではない。
だが――
リリィは腿のホルスターから銃を取り出し、手中に収める。近くに迫っていた警備員が動揺する気配を観察しながら両手で構えた。照準を絞る。
(外せる)
混戦を少人数で耐え抜くには、敵を驚かせるくらいしか手段がない。――今のスティアを見れば、効果の程はよく分かった。森の外では使えない戦い方だが。
ハッタリをかますには、威力を見せつけるのが一番早い。
(外すように狙えば――外せる!)
リリィは足を踏ん張ってトリガーを引いた。重い手応えと同時、ロビーを囲っていた半透明のガラス壁に、派手な亀裂が炸裂する。
音の余韻が響く中、全ての気配が静まっていた。警備員はこちらに駆け寄るのを停止して、警戒して立ち尽くす。
リリィは脇を締めて銃口をあげた。一番近くに立っていた警備員に照準を合わせる。リリィが武装している情報は知らなかったのだろうか。緊張に張り詰めた顔に困惑をにじませながら、両手をあげた。
「動かないで」
声が震えているのは、隠せなかった。
「これ以上、私たちに危害を加えたら、この人を撃つ」
警備員の標準装備は、警棒のはずだ。彼らに、この距離を詰める手段はない。
先ほど、セイが拳銃を持っていたのが気がかりといえば気がかりだったが、今目の前にいる男たちは誰一人、法外な切り札を隠しているようには見えない。突撃する隙を見つけようとするように、様子を伺っている。いや。
「ハッタリだ」
楽しそうですらある、余裕の声が聞こえた。テッド。
「構わないで取り押さえろ。リリィに、人を撃つことなんて出来やしない。……この場にいる誰よりも、俺はそのことを知っている」
人質から目をそらすのは危険だと分かっていたが、それでもリリィは細心の注意を払いながら、視線を移動させる。警備員とテッドとリリィ自身の立ち位置が三角形になるように、じわりと重心を移動させながら。
座り込んだままのスティアを挟んだ位置で、彼と同じような動作で胸を押さえたまま、テッドはこちらをまっすぐに見つめていた。銃を人に突きつけているリリィの姿を、その強がりすらも慈しむように。
「……あなたに」
声が割れる。
「あなたに、私の何が分かるの」
「分かるさ。逆に聞きたいよ。どうして俺に分からないと思うんだ?」
そこまで言って、テッドは立ち上がろうとした。が、頭を押さえて、膝をつく。衝撃で、脳しんとうでも起こしているのだろう。
だが、彼は静かに顔を上げる。
無様な恰好とは裏腹に、言葉は静かだった。憎たらしいほどに、理性的だった。
「俺の名前が、ガイルじゃないのは確かだが、ウソなんて結局はそれだけだろう。動機がなんであれ、お前と三年間メールを続けてきた相手が俺なのは、現実なんだ。お前の悩みを受け止めた言葉も、お前を励まし、勇気づけた言葉も全部、俺がお前のために頭をひねって、一所懸命にしぼりだしたものなんだ」
嗜虐性は影を潜めていた。今さらに、誠実さを全面に押し出して、そう言った。
「名前が違っただけで、これまで俺が届けた言葉が全て無駄になるのか? どうしてお前たちは、そこまで名前というものにこだわるんだ。俺のメールなしに、お前がこの進路を選んだとも思えないのにな」
頭が、白くなる。
「騙す騙さないの全てを置いておけば、お前がこれまで見てきた言葉は、俺の内側で生まれたものなんだ。小説家や脚本家が、悪意で虚構を並べているとでも思っているのか。お前は俺が生み出した渾身の創作に、心を確かに動かした。――それは現実なんだよ」
リリィは、静かに、強く、唇の端を噛んだ。
屁理屈の口上を、止められない。間違っていると、断言できる根拠が見つけられない。そんな自分の愚鈍さが、たまらなく嫌だった。
だが、それでも、銃口は下ろさなかった。
理屈が見当たらなくても、抵抗をやめることはできない。
この現実はおかしい。そう思うことはやめられない。考えることはやめられない。
思考を停止してはいけない。
――スティアの言葉の意味は、こういうことだ。
決意など、知ったことではないというように――あるいはそれすらも愛しむように、テッドは唇の端に笑みを浮かべた。
「取り押さえろ」
命令が繰り返されるが、警備員は動かなかった。命を握られている一人だけでない。他のふたりも。
彼らの表情には、リリィの持つ武器に対する恐れもあるが、同時にテッドに対する不信が見て取れた。今の会話を外野で聞いて、とるべき行動を迷っているようだった。
意外な展開ではあるが、納得のいく幸運でもあった。この場所に勤務している以上は、彼らも一般人への武力行使が起こり得ることを想定して働いていたのかもしれない。だが、突然呼び出された急務の上官が、年若く態度も悪いこの男なのだ。先ほどのスティアの口上を聞いたのであればなおさら、仲間の命がかかった状況下で、無言の忠誠は誓えないだろう。
ましてやリリィは毎日ここに通い、顔を合わせれば笑顔で挨拶をするような優等生だった。彼らの顔も、はっきりと覚えてはいないにせよ、見たことがないわけではない。
敵は、一枚岩ではない。
思っていたよりも、この包囲網には、隙がある。
「ここにいるのは腑抜けばかりか」
軽蔑してテッドがもう一声をかけるが、それでも警備員は動けずにいた。ため息が流れる。
「なら」
テッドは、ふらつく頭を支えるように、額に手をあてた。そして。
「俺が手本をみせてやろうか」
ゆらり、テッドが立ち上がった。
リリィが振り返るよりはるかに早く、テッドはうつむいているスティアの方に迫っていった。――テッドの座る位置からだと、リリィよりもスティアとの距離の方が短い。立ち上がることが出来ずとも、膝をついたままでも、すぐに詰められる。
引き金を引くことはできなかった。テッドはまるきりこちらの甘さは見通しているように、迷わず、スティアの関節をすくうように、彼の右腕に手を――
伸ばしたその瞬間に、沈黙を守っていたスティアが動いた。
テッドに捕らわれるより早く、スティアはまっすぐに右腕を伸ばした。その瞬間を待ちかまえていたとばかりに、鋭く。
だが、単純な腕力勝負でどちらに分があるかなどは、一目瞭然だ。そう思った一瞬に。
リリィは、スティアの手の甲の光が、いつのまにか緑から赤に変わっていたのを見た。それだけでない。手袋で覆われていたはずのその手の甲に、違った色が見えたような……?
「つぁぁああああ!」
派手な悲鳴が、フロアに響きわたる。テッドは顔面を押さえてのたうった。
何が起きたか、分からなかった。分からないほどにスティアの動きは小さかった。殴ったりはしていない。爪の先で顔を引っ掻いたわけですらない。
テッドは顔を押さえたままで、床を転がった。尋常でない悲鳴が聴覚を刺激するのに紛れて、リリィの嗅覚は違和感を嗅ぎとった。
肉が焼ける、焦げた臭い。
「……そんなに見たいなら、見せようか」
わずかに息を弾ませて、スティアが、低く呟いた。
無様に転がったままのテッドの前で、立ちあがりながら、羽織っていたジャケットを脱ぐ。いつのまにか外していた手袋と重ねて、床に放り捨てた
リリィは目を丸くする。
かたくなに露出を避けたスティアの両腕が、露わにされている。想像通りの体型であるはずなのに、目の前にすれば想像以上にアンバランスだった。肩や肘の骨格の出っ張りがはっきりと浮き出るほどに、筋肉も贅肉もなにもない。中に着ていた半袖のインナーも決してサイズが大きい品とは見られないが、体格に余って不恰好だった。
もちろん、見るべき場所はそんなところではなかった。右の肩口から右手の指先にかけての半身全体が、異質な素材で出来ていた。
鉄のような素材でできたパーツが、人間の表皮でないことは見れば分かる。無機質な部品が連動し、きちんと関節が曲がるように配置されて、腕の形を模していた。
義肢だろう。それにしてはずいぶん細やかに、まるで実際の腕であるように動作しているが。
手袋の上からでも見えていた光。――その正体は、中指の付け根に張り付いた、宝石に似たフォルムのランプだった。関節ごとにパーツがかみ合う無骨な手の中で、その色だけがひどく美しい。
「面倒だから教えとくよ。外部からどんなに力を入れたって、アニマは砕けない」
言いながら、スティアはテッドを見下ろす。
テッドは明らかに聞いていないようだった。叫び疲れて、肩で息をしながらも、体のいたる所をかきむしるように、苦しんでいた。
(!)
不意にリリィは気付いた。テッドを蝕む痛みの正体。
――赤い時は、熱が出せる。
スティアが、そう言っていた。
鉄のような素材で出来た義肢。
肉の焼けるような臭い。
「はやく冷やした方がいいんじゃないの? ――もう、傷痕は消えないだろうけどね」
スティアは、右手の指先の五本を全て離すように、手を開いて、見せしめるようにしながら、低い声でそう言った。
のたうつテッドの手指の隙間から、その顔色がわずかに見えた。そしてリリィはゾッとした。左頬の大部分が猛烈に赤かった。焼けただれて壊れた皮膚と、その内側の発熱した肉。
スティアの指先から、じゅわぁ、と、小さな音が響き続けていた。油を塗った鉄板に、肉を載せた時の音にそっくりだ。ならば音の正体は、テッドの顔の皮脂、だろうか。
警備員もしばし言葉を失っていたが、我に返って助け起こしに駆け寄る。人質を撃つふりも忘れてリリィはそれを見届けてしまった。
「何で俺があんたを『ガイル』と認められないのかも、教えてやろうか」
スティアは、その様子を遠く眺めながら、左手で右手首に触れた。これまで手袋の下に隠れていて見えなかった箇所に、身に着けていた何かを、外す。
鉄色の腕に紛れてしまって、リリィの位置からではよく見えないが、銀色の、チェーンのような……
彼はふらりとリリィのそばに寄り、持っていたものを手渡してきた。リリィは思わず銃を片手に持ち替えて、受け取る。
絶句した。
「俺がガイル・ブルーノだからさ」
テッドに向けて高らかに断言する声を、ただ聴いた。
受け取ったものは、腕時計のように細いチェーンで繋がれた銀色のプレートだった。登録番号とおぼしき長い数字と、盾を模したマーク、そして人名が刻まれている。
見間違えなどしない。これを手にすることを夢見て、訓練を続けてきた。〈ガード〉のライセンスだった。そして。
刻まれた名前の綴りは、さらに馴染み深い。
ガイル・ブルーノ。
間違いなく、そう書かれていた。




