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グレイゾーン1  作者: サヤカ
Act3 イリーガル・ガード
12/36

 まどろみの中で思い出したのは、髪を伸ばした理由だった。

 繰り返される戦闘訓練の中で、何度邪魔に思ったかは知れない。切ろうと思った回数も一度や二度じゃない。

 それでもリリィが髪を伸ばし続けた理由は、とても単純なものだった。好きな人に誉められた。たったそれだけの事だった。

「長いのに、毛先まで綺麗だよなぁ」

 何か特別な手入れでもしてるもんなの? と、教室で邪気なく聞いてきたその声を、今でも覚えている。

 もうすぐ切るつもりだと返事をした時の反応もまた、忘れられない。

「え、切っちゃうんだ。もったいない……って、いや。好きにすればいいけどさ。でもやっぱ、もったいないなぁ」

 次から次へと人を寄せ付ける父のせいで、故郷の街にいたころから、男の友達はたくさんいた。気の置けない友人として、そのそれぞれと気さくに笑いあいながら育った。

 だが、ストレートに美しさを褒められたのは初めてだった。照れくさくて、だけど嬉しくて、忘れられなかった。

 結局、毛先をそろえる程度にしか髪を切れなくて、その男とはそれをきっかけにして親しくなったのだと、思い出した。

 そして、彼を通じて知り合った友人が、ジャンであり、リックであったことを。

 思い出して、心臓が冷たく鳴る。

 父からだと思いこんでいたメール。現れた見知らぬ男。彼らと共に立っていた、友人であったはずの二人。

 どこからが、真実なのだろう。

 何を、信じていたのだろう。


 ゆっくりと目を開けたリリィは、横たわった身体をかすかに沈める、吸いつくような感触を意識した。神殿街の石造りの床ではない。かといって、自宅のベッドほどに居心地がよいわけでもない。そこはソファの上だった。……黒い皮の背もたれが目の前に見える。長いソファをベッドの代わりにして、眠っていたようだ。

 ゆっくりと半身を起こした。背もたれの向こう側の壁は、窓になっていた。空が赤い。夕焼けの光が刺すように入り込んで、まぶしいほどだった。時計を確認する術はないが、あれからさほど時間が経ったわけでもないらしい。

 ――あれから。

 ようやく、我に返った。

「目が覚めた?」

 友好的な声は近くで聞こえた。振り向く。

 リリィが座っているソファの向かいには、低いテーブルを挟んで、同じデザインのソファが配置されていた。スーツを着た赤毛の男がくつろいだ様子で背を丸め、リリィの姿を楽しそうに見つめていた。

「寝起きがいいな、リリィは」

 これといった特徴もない平凡な顔立ちを、柔らかな笑みで歪めて、男はささやく。

 リリィは反射的にあとずさろうとして、体勢の悪さを自覚してソファを立った。正面を睨みながら、男の姿を越した、部屋の間取りを意識する。 飾り気には乏しいが、おそらくはどこかの応接間だろう。男が座っているソファの向こう側に、出口と思われるドアがあった。

「あなた……何」

 こちらからの質問を受けて、男は待望の言葉を受け止めたように笑みを深めた。愉快犯の愉悦だ。

「ガイルだよ」

「……いい加減にして。私は父さんを見間違えたりしない。顔も体格も違う。髪の色だって年齢だって合ってない。化ける気なんかかけらもないのに、何を言ってるのよ」

「それでも、お前が『父さん』って呼んで、何年もずっとメールをしていた相手は、俺だから」

 平然とそう返された。理解を越えた答えに、会話が途切れる。

 赤毛の男は心の底から嬉しそうに、愛おしむような、馬鹿にするような笑い声をあげた。

「かわいそうなリリィ」

 彼がソファを立ち上がると、目線が合った。男はすねの高さにあるテーブルに膝を乗せ、踏み越えるように身を乗り出して、リリィの肩に向けて手を伸ばす。

 嫌悪感に弾かれて後ろに下がると、ソファに足をとられてリリィは無様に尻餅をついた。立ちあがるより早く、男の指が髪に触れた。おぞましさに鳥肌が立って、動けなくなった。視線がかち合う。甘い愛情を覗かせる、静かな目がこちらを見ている。

「何も知らないのに、与えられるものを信じていて、そしてそれを疑うことすらも知らない。そんな所が、可愛いんだけどな」

 心と体のピントがかち合い、リリィはその一瞬で左手をふりあげる。だが暴れる寸前の手首は、男に捕まれてあっさりと止められた。

「別に隠す気はない。俺の親が俺に与えた名前は、テッドだ。でもこんな名前は、俺たちの間に意味はない」

 生理的な嫌悪と、聞き逃せない情報が同時にやってきた。リリィはどうすることもできずに、食い入る眼差しで男を見た。

「だって、お前は俺のことを父さんって呼んで、ずっと会話をしてきたんだから」

「……違う」

「違わない」

「違う!」

「でもお前は、本物のガイル・ブルーノと俺が、いつ入れ替わったなんて分からなかっただろう」

 テッドは会心の笑みを浮かべて、触れていた手を離す。リリィの顔を、恍惚めいた満足の顔で見つめながら……テーブルから足をどけて、元のように向かいのソファに腰掛けた。

「種明かしをしてあげるよ、リリィ」

 スーツの内ポケットに手を差し入れてから、そっと何かを差し出した。……名刺だ。

 白い紙面に、見覚えのあるロゴマークが印刷されている。拳銃とアンテナをモチーフにしたその記号は、今や街中のどこででも見かけるものだ。

(レアリス・カンパニー……)

 世界の激変に抵抗する大企業にして、リリィにとっては将来の就職先だ。テッド・リオ。レアリスカンパニー、ガード事業部、デカルト支部経営部門……

「俺の個人的な意見は、ひとまず置いておこう」

 テッドは、指を二つ立ててみせた。

「これからカンパニーはお前に、きっと協力を要請する。ひとつは、ガイル・ブルーノに関する情報を洗いざらい吐くこと」

 まったくもって唐突なことを言う。リリィが事態に取り残されれば取り残されるほど、テッドの表情は優しくなる。そのことだけは、分かった。……分かりたくなど、なかった。

「お前の父親は、特殊な立場の人間だったんだよ。カンパニーは、彼が持ち逃げした情報を欲している」

「持ち逃げ……?」

「三年前から行方不明さ。おそらく、死んだね」

 当たり前のように、特筆することでもないとでも言うように、テッドなる男は、そう言った。

 驚きを表情にすることすら、出来やしない。リリィはただ呆然と唇を半開きにして、目の前の男を見つめた。

 三年前。

 その言葉の意味するところが、何も浮かばない。

 もう目は覚めているのに、大変な問題に直面しているのは分かるのに、頭がぼうっとしてきた。理解を超えて、理解を拒みたくて、脳がついてきてくれない。混乱の中で漠然と、目の前の光景とは違う場所で見聞きした、過去の言葉が錯綜する。昨日や今日に交わしたメール。……父の気楽なメッセージ。リリィを呆れさせ、励ましてきた、たくさんの文字。

「ちなみに、俺がガイルと入れ替わったのも、三年前だな」

 嗜虐的な笑みで、テッドはリリィの顔を覗き込む。現実に置いていかれそうなリリィを表情を、愉しんでいる。

「……なんで」

 声が震える様が、相手に伝わってしまうのが悔しくてたまらない。

「なんで、そんなことをしたの」

「ガイルは秘密を握ったまま死んで、レアリス・カンパニーはその情報を欲している。彼の個人情報を調べ尽くして、一人娘であるお前の所に行き着くのは当然だろう。カンパニーは、お前を抱き込む手段を探していた」

 問いを無視する形で、すらすらとテッドは説明を並べた。意図してのことだろう。――彼はリリィをじらしている。

「だったら、こんな回りくどいことをしなくても、聞かれた事には、答えたよ。父さんが死んだことを教えて、質問をしてくれるだけで良かったのに、どうしてこんな――なりすましでメールなんか、三年間も……!」

「レアリス・カンパニーは、お前を仲間にしたいんだ」

 テッドは涼しく告げた。

「こちらから召集をかけるより早く、お前は自主的に〈ガード〉を目指し、カンパニーへの就職を希望した。なら、正式な手続きで正式な引き込んで、手厚く抱き込んでやろうってハラだったのさ。監視を残してキープしつつ、時期が来るまで育てるつもりだった」

「それとこれとは話が別でしょう⁉︎」

「別じゃないんだ。お前は、父親の事情を説明された後だと、カンパニーへの就職など希望しなくなるさ。それどころか、機密だけ握った不穏分子になりかねない……逃げ場をなくして、信用を買う手段があるなら、多少の手間は投資だ。それほどお前の持つ情報は有用なんだよ。いや、情報に限った話じゃないな。『ガイルの娘』というカードを組織に抱き込むことが出来れば、利用価値はデカい」

「情報……って」

 リリィは言葉に詰まった。

「私は、そんなこと何も知らない」

「そうみたいだな。それはメールをしているうちに分かった。でも、俺以外の人間はそんなこと知らねぇからな。リリィ・ブルーノを平穏に採用するために、裏からけっこうな手を回したらしいぜ。――入試の成績がトップだったって、喜んでたよな?」

 父にしか知らせていなかったはずの過去を口にして、テッドはにやりとした。

「成績を裏から操作して、お前を安全に入学させて卒業させるなんて、簡単な事だ」

 教室で日々顔を合わせる、シモン教官の顔を思い出した。――お前は優秀だな、リリィ。この調子でいけばかなりの順位で卒業できるし、推薦状も書ける。油断せずに精進しろよ。

「教員や警備員を抱き込むのも簡単さ。〈ガード〉システムのスポンサードをしているのが俺たちなんだから、学校のすべてはレアリス・カンパニーの手のひらの上だ。生徒の中にも、俺たちの一派はいた。入学当初から、お前を監視するバイトとして雇っていた候補生の一部が、さっきの二人だ」

 ――ジャンとリック。

 向こうから声をかけられて親しくなった。ガードの専門学校に通うにしては、ふたりとも学業には熱心でなかった。

 彼らと知り合ったきっかけを、思い出す。紹介してくれた一人の男。ふたりで特別な時間を作るようになった唯一の相手。

 彼は、どうだったのだろう。

 これ以上に確かな存在などないと、疑うことすらしなかった、家族の存在が嘘だというのなら。友情の全てが用意され、仕組まれたものだというのなら。

 あの恋情の全ても、あるいは。

「無知なお前は、目の前の現実を疑うことを知らない。あとはカリキュラム通りにスキルを上げてゆくのを見守りながら、希望通りの進路を進むまで待つだけでよかった」

 もはやテッドの説明の声が頭に入らない。リリィは親友のエミリのことを思い出していた。あの教室の誰が、どこまで、事情を知っていたのだろう。

「だけど、そこまで上手くはいかなかったんだ。この街に出張に来たセイが、『あれ』の気配を察したのが数日前」

 知らない名詞や代名詞が増えたが、それを言及する気力も沸かない。

「スパイとして潜らせてたジャンとリックに、念のためにお前の周りを調査させて、最悪の事態が把握できたのが、今日だ。もはや一刻の猶予もない」

「なんの話よ……」

 テッドは答えず、意味深に笑みを深めた。次に口を開く時は、話題が変わっていた。

「カンパニーがお前に求める情報の、一番大事な所は、これなんだよ」

 胸ポケットから再び何かを取り出した。指先で摘める程度の大きさの、小さな布袋だった。――色あせて、ほとんど肌色に近くなってしまったピンク色。

 それが何かを認めて、リリィは身体を起こした。服のポケットに手をやる。通信機がなくなっている。そして、同じポケットの奥にしまっていた、いつでも持ち歩いていたはずのものも、なくなっている。

 父に預けられたお守りの袋を手中にして、テッドは得意げに告げた。

「お前がメールで言う所の『お守り』の存在を、最近になってから上司に告げたら、すげぇ驚いてたぜ。なんでもっと早く教えなかったんだって、怒鳴られたけど」

「返して!」

 ソファから立ち上がり、今度はリリィの方からテーブルを踏み越えた。だが、食いかかろうと伸ばした手の動きはすぐに止まった。テッドがお守りをくるりと裏返していた。

 縫い止められていた開け口が、切り裂かれていた。

 テッドはにやりと笑って、視線をもう片方の手の方にくいと向けた。思わず、誘導されるようにしてそちらを見ると、さきほどまでは何も持っていなかったはずの手の中に、手品のように現れていたものがあった。

 親指の先ほどの大きさの、宝石に見えた。

 種類は分からない。――リリィは、誕生石であるダイヤモンド程度しか、この手のことに関して知識がない。水を結晶にしたような、滑らかな光沢がある半透明の石だ。色は、澄んだイエローだった。

 美しいが、宝石の表面には、粘土に似た黒い物体が、所々にへばりついていた。卵の殻をかぶったままのひな鳥のように、全体を覆っていたと思われるものが、剥がされている……

「マター・コーティングとは、ガイルも手の込んだことをする」

 テッドが笑っている。父との秘密の約束だった、リリィ自身すらも中身を知らなかった、その宝石を指先でもてあそびながら、訳知り顔で笑っている。

「どうりで、誰も気づかずに行方不明扱いになったわけだ。かのレイバ・ブルーノといえど、これでは探査の仕様がないだろうな」

「レイバ……?」

 まだなお、身近な名前が登場することに、どうしようもなく苛立った。

「レアリス・カンパニーがお前に要求することは大きく分けて二つだ。一つは、ガイル・ブルーノに関する情報を洗いざらい吐くこと。それには、この宝石に関することも含まれる」

 先ほどと同じことを反復してから、一息おいて告げた。

「そしてカンパニーへ身柄を預け、レイバ・ブルーノとスティア・アリビートに今後一切関わらないこと、だろうな」

 最後のひとりだけは、予想外の名前だった。

 部屋の外から物音がした。遠くの方から徐々に近づいてくる慌ただしい足音と、怒鳴り声が聞こえてくる。

「誰もあの部屋に近づけるなと言っただろ!」

「いや、さすがにそれは俺の権限じゃ無理っすよ。だいたいあの人、セイさんの許可はちゃんと取ったって――」

「許可を出した覚えはない! 今のあの子とテッドを接触させるのが、最悪だってことくらい――」

 バタンと勢いよく、ドアが外から開け放たれた。

 そのまま部屋の中に駆け込んできたのは、遺跡で会った金髪の男だった。かなり急いで来たのだろう、完璧なシルエットを保持していたコートの襟元が乱れている。彼は息を整えながら眉間を指で押した。サングラスは、室内でも外していなかった。

 後ろから、弱った調子でついてきていたのは、まったく知らない若者だった。それがジャンでもリックでもなかったことに安堵するだけの余裕もない。――テッドの言葉が、不快な愉悦が、リリィの頭の中をぐるぐると回っていた。

「慌ててどうしたんだい、セイ」

 サングラスの男の焦った態度に、テッドは涼しく笑う。セイと呼ばれた金髪は、息を整えてから、苦々しく声量を抑えた。

「何を、どこまで話した」

「全てを、ありのままに」

「何故だ!」

「言わなくても分かってるだろうに、あえて聞くところが気に入らないんだ。それにしても意外と迂闊だよな。あんたみたいな若造に本社がどれだけの権限を与えてようが、この地区では俺の方が経験も人脈も勝ってるんだぜ」

 テッドはひょいと肩をすくめて、飄々とした仕草で立ち上がる。出て行こうとするその背中を、リリィは大声で制した。

「まだあなたは、私の質問に答えてない!」

 テッドは振り返って、確信犯の笑みを浮かべた。

「そうだったか?」

「仮に、レアリス・カンパニーが父さんの持つ情報を必要として、娘である私を囲い込もうとしていたことが本当だとしても、メールで私を監視する意味なんて何もなかった」

 夢中になって叫びながら、リリィは目の前の男を睨んだ。――初対面の、見知らぬ男。これといった特徴もないスーツを着た、二十代半ばほどの、赤毛の男。

 こんな人間は知らない。悔しさに身体の中が煮えくり返る。どうして私は今、こんな男の前で、こんな話をしている。

「私が父さんに送ったメールなんて、ただの日常会話だった! カンパニーにとって有益な情報なんてひとつだって渡した覚えがない。どうして、情報を聞き出すわけでもないのに、わざわざ父さんに化けて、三年も雑談に付き合ったの!」

 テッドは真逆に、旧知の間柄であるように親しげに笑った。

 今しがた、セイに見せたような冷たい笑みではない。彼がリリィに向ける眼差しには明らかな愛情があった。それが何よりも気味が悪い。

「……ガイル・ブルーノが死んだ現場を、しばらくしてから検分に行ったのが、俺だったんだ」

 軽い声が、不気味に躍る。

「事故現場の隅も隅、崖崩れが起きていた岩場の中から、壊れた通信機を拾ったのは偶然さ。その機体の奥でなんとか無事に残ってた〈ストーン〉のメモリーから、ガイルの所持していたデータを引き出すことに成功したのは、うちの会社の技術があってこそだけどな」

 彼は両手を広げた。演説でも自慢でもするように。世界中の人間に発するように。

「ガイルは仕事とプライベートをきっちりと分けるタイプの人間だったらしいぜ。その携帯に入っていた情報は、個人的なものが全てだった。ろくにデータ容量もない初期仕様の通信機の中で、娘から届いたお気に入りのメールをなんとか保存して、大切に眺めていた様子くらいは察することができたけど、それだけだった。組織は早々にそのデータに見切りをつけて、別の方向から事件の調査を始めたんだよ。俺もそっちの仕事に参加した。組織が見捨てたデータの中から、ガイルのアドレスと、ガイルの家族が住まうスピノザ・シティの契約メーラーのアドレスを盗み見るのは簡単だった。それを控えたのは俺の気まぐれだ。そして、ガイルになりすまして娘にメールを送ってみたのは、好奇心が理由さ。レアリス・カンパニーにここまで周到に付け狙われるハンターが、どんな人間だったかが気になったんだよ」

 瞳に、危険な愉悦の色が灯る。

「あとは強いて言うなら……お前が可愛すぎたのが、メールを続けた理由だ。父親の口調を研究して、シミュレートして、その通りに送ってみた創作のメールに、本気になって返事をくれる。俺は父親でもハンターでもなんでもないのに、頭で描いた全ての虚構をお前は信じる。こんな言葉をかければ、お前はこう反応をくれるかなって、期待なんかすると、だいたいはその通りに動いてくれる。たまに変に予想を裏切る所まで含めて、楽しくてたまんなかった。けしかけ方が上手くなればそのうち、進路や悩みの相談までしてくれた。赤の他人のこんな男に! ――お前の無知さや愚かさが、自分の娘のように愛しくてたまらなかった」

 誇らしく胸を張って、高らかに告げる。

「このメールのやりとりに、組織の意向は関係ない。俺の趣味さ。毎日の仕事を終えて、お前に送るメールを考えることと、お前から帰ってきた無邪気な返事を見ることばかりが、俺の楽しみだった」

 リリィは己の感覚が消え失せたことを理解した。ただ、頭が白くなった。

「そのうち、考えるようになった。俺が正体を現して、すべてを教えたその時に、お前はどんな顔をするんだろうって。あとは、最近になって本社と利害が一致したから、個人的に連絡を取っていたことを明かしただけさ。失われた〈イエロー〉が、お前がお守りと呼ぶあれなら、今になってレイバが動き出した説明もつく」

 テッドは言葉を切って、息をためた。とろける笑顔で、熱い声を吐く。

「分かるか。俺は、今、お前が俺を睨んでる、その顔が見たくて、そのためにずっとメールをしていたんだよ。徹底的に夢を見せて、突き落とされた瞬間のその顔が、見たくて見たくてたまらなかったんだ」

 邪悪な幸福に溺れながら、どこまでも甘く言い放つ。

「想像していた以上だ。――可愛いよ、リリィ」

 リリィは、ソファから立ち上がっていた。

 テーブルを土足で踏み越えてテッドの襟首を掴んだ。持てる全ての力を使って睨んでも、彼は表情を変えない。怒りをぶつけられることすら楽しんでいる。リリィの屈辱を蜜にしている。

 衝動のまま、襟首を掴む手が喉に伸びた。力を込める一瞬前に、気配が背中に回り込む。わきの下から腕を差し入れられ、羽交い締めにされていた。

「離して! ――離せ!!」

 リリィを後ろからとらえたのは、セイと共に部屋にやってきた若者だった。姿は見えないが、他の人間は全て前方にいる。

 いきなり引き離されたことで、テッドはソファに尻餅をついていた。その横から、こめかみに銃口が突きつけられた――セイ。

 彼がいつ銃を取り出したのかは分からなかった。掌に収まるような小さなハンドガンだ。指は、引き金にかかっている。

「テッド・リオ。……今の発言を含めて、これ以上の命令違反は認められない。私の権限で、お前を拘束する」

 サングラスに遮られて表情は見えないが、押し殺した声の響きから、怒りの気配は濃厚に感じられた。

「無関係の人間に対する個人的で悪質な措置も、企業秘密を軽々しく話し計画の遂行を阻害するやり口も、これ以上は看過できない」

「俺のメールを利用してリリィに近づこうとしたくせに、よく言うぜ」

 銃を突きつけられても、特に気にした様子もなく、テッドはセイを見返した。無造作に両手を挙げて、降伏の意だけは示す。

「でもひとつ言っておくと、俺はリリィに事情の全てを話しちまったからね。今さらどんなきれいごとでごまかしても、こいつの心は動かないだろう。悪事を隠蔽し、アフターケアを施したうえで、レアリス・カンパニーに平和的に抱き込もうって言う、あんたのプランを実行するのはもう難しいぜ」

「貴様……」

「俺は満足した。どうにでもしてくれよ。こんな退屈な仕事を続けて、お前みたいな退屈なガキに従ってきたのも、この瞬間のためだったんだ」

「なら表に出ろ。望み通り終わらせてやる。もう二度とこの部屋に来ることはない」

「残念」

 セイに銃口を向けられたまま、テッドはあっさりと立ち上がった。部屋を出ようとする二人を睨んで、リリィは羽交い締めにされながら、暴れた。

「待ちなさいよ! 待って!!」

 大の男に後ろから関節を押さえられてしまえば、あらがえない。最低限の力で、全身の自由を奪ってしまった後ろの男を憎みながら、リリィは叫んだ。届くものは、声しかない。

「ふざけないでよ! このっ……!」

 涙がこぼれていたことにようやく気づく。悲しみではない。怒りの熱が、眼球の水分を沸騰させて、ふきこぼれるようだった。

 遠ざかっていく背中に手は届かず、拘束された丸腰の体を動かすことも出来ない、身体中のすべての血液が激情に滾った。この期に及んで余裕に笑んだあいつの顔を、上から、完全に、ぐしゃぐしゃに。

 ――声しか届かないのに、崩すことなんか出来やしない。

 叫びはいつしか、意味の分からない金切り声になっていた。

 部屋を出る間際に、テッドが振り返ったが、セイがその表情を隠すように立ち塞がった。そのまま、二人の男は、部屋から出ていってしまった。

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