第23話 潜入、ウィグル鉱山
星霊暦五〇四年一月三十一日、木曜日。深夜。
荒野を吹き抜ける風は、骨の芯まで凍みるほどに冷たい。
だが、エフェスの体は熱を帯びていた。彼はウィグル鉱山の東側、切り立った岩山の高台に身を潜め、眼下に広がるその場所を見下ろしていた。
「ここなら、よく見えるね……」
月明かりが、不自然に大地がお腹をくり抜かれたような、本能的に痛々しいと感じる光景を青白く照らし出している。
北側を流れる川から、用水路のように強引に水が引き込まれていた。南側の山肌は、まるで巨獣の爪で抉られたかのように赤茶けた土が剥き出しになり、そこには四つの巨大な坑道が、暗黒の口を開けて並んでいる。周囲を囲むのは、粗末だが先端を鋭く尖らせた木の柵だ。
施設の内側には、監視のための櫓が四隅に一基ずつ。中央には巨大な木造の長屋が十棟、墓標のように並んでいる。それらを取り囲むように、少し小ぶりな小屋が二十棟ほど散らばっていた。
そして、それらの薄汚い建物とは一線を画すように、坑道側の少し離れた高台の上に、唯一しっかりとした造りの「石造りの家」が一棟、傲然と鎮座していた。
おそらく、ここの支配者の住処だろう。エフェスの少ない知識でも、なんとなくそのことを察した。
深夜ということもあり、外を出歩く人影は少ない。エフェスは目を細めた。
「十名か……今の時間で十名となると、もっとも、ならず者たちもいるかもしれんね……」
櫓の松明の動きと、巡回している影の数。寒さのせいか、その足取りは鈍い。
正面から飛び込むのは愚策だが、この暗がりと地形を利用すれば、忍び込む隙は十分にある。
エフェスは音もなく岩山を降り始めた。
当然、門から堂々と入るわけではない。山側から柵の死角へ飛び降りられるポイントを探りながら、慎重に距離を詰めていく。
柵までの距離が百メートルを切ったあたりで、エフェスは足を止めた。
目を凝らす。柵の内側に、等間隔に配置された黒い影がうごめいていた。
「あれは……犬かな?」
鎖に繋がれた犬たちだ。
エフェスの脳裏に、故郷ガラーシャ村の記憶が蘇る。猟師の家に飼われていた犬たちは、狩りの頼もしい相棒であり、家畜を狼から守る番人だった。賢く、忠誠心が高く、愛らしい。
だが、敵に回せばこれほど厄介な相手はいない。
彼らの嗅覚と聴覚は、人間の比ではない。異変を察知すれば、何十メートル先からでも吠え立て、侵入者を知らせるだろう。
「こりゃ、考えなしに入ったら、すぐ吠えられるかもね……どうすっかね……」
昨日のような奇襲は通用しない。あともう少しで、目と鼻の先にある集落へ侵入できるというのに。
エフェスは視線を巡らせた。転がせそうな岩はあるが、不自然な音は警戒を招く。枯れ木を投げ入れても同様だ。鳥の群れを使おうにも、騒がれては元も子もない。
ふと、岩の隙間に何かが挟まっているのが目に入った。
エフェスはそっと手を伸ばし、それを掴み上げた。土と同じ色をした、ゴツゴツとした皮膚。
「いた! イワトカゲだ! ……夕方のフィンネルの話、覚えとってよかったー」
寒い夜の影響なのか、動きは鈍い。エフェスはそっとその体を包み込み、掌に伝わる小さな心音を確認した。
(まさか、死んどらんよね……よし、動いとる)
安堵と共に、少しばかりの罪悪感が胸をかすめる。
「(……ごめんよ)」
心の中で謝罪しつつ、エフェスは風下から慎重に柵へと接近した。狙いを定め、腕を振る。
ヒュッ。放たれたイワトカゲは放物線を描き――
ベチャッ!
生々しい音を立てて、一匹の犬の目の前に落下した。
「ッ! ワンワンワン!!!」
「「「ワンワンワン!」」」
突然空から降ってきた餌に驚き、あるいは興奮し、一匹が吠え始めたのを皮切りに、ウィグル鉱山中の犬たちが一斉に吠え始めた。
静寂に包まれていた深夜の荒野に、けたたましい鳴き声が響き渡る。
「うるせぇ! この馬鹿犬! 黙ってろ!」
「なんだ? トカゲを食いてぇってか? いちいち、そんなことで鳴くんじゃねぇ!」
近くを巡回していたならず者たちが四人ほど駆けつけ、苛立ち紛れに棒で柵を叩き、犬たちを威嚇した。
「おーい、何があった!?」
櫓からも声が飛ぶ。
「いや、なんでもねぇ! 食い意地をはった犬がトカゲ欲しさに泣きわめいているだけだ!」
犬の咆哮と男たちの怒号が交錯する。
その喧騒こそが、エフェスの求めていた「隠れ蓑」だった。誰の耳にも届かない軽やかな着地音と共に、エフェスは柵を飛び越え、人影のない物陰へと滑り込んだ。
潜入成功。
「(今なら人も少なかし、ちょっと建物の様子ば見てみっか……)」
◇
エフェスは気配を殺し、まずは小屋の一つに近づいた。窓から漏れる明かり。中を覗くと、ならず者たちは酒瓶を抱えて卓に突っ伏していたり、だらしなく椅子に寄りかかって眠っていたりした。
「(油断というよりは、周りから襲い掛かってくると最初から思っていない、まるで日常の緩さやね)」
こんな連中に、シギロア村の人々が虐げられているのか。
エフェスは湧き上がる怒りを腹の底に押し込め、次の目標へ向かった。
中央に並ぶ、巨大な収容施設だ。
ならず者の小屋とは違い、窓は高い位置にあり、頑丈な鉄格子が嵌められている。エフェスは近くにあった木箱を足場にし、鉄格子の隙間から中を覗き込んだ。
鼻をつくのは、腐った藁と土、そして澱んだ体臭の混じった匂い。
暗くて詳細は見えないが、床には人間が隙間なく詰め込まれているようだった。ベッドもなければ、道具を置く棚もない。ただ、集団で雑魚寝をさせられているだけの空間。
ざっと見ただけでも、この一棟に五十人はいるだろうか。まさにガラーシャ村で見たことがないような悲惨な光景だった。
エフェスは周囲を警戒し、まだ犬の鳴き声が遠くで続いているのを確認してから、鉄格子越しに囁いた。
「(おい! 誰か起きてないか? おーい!)」
反応はない。皆、過酷な労働で泥のように眠っているのだろう。
「(おーい! 誰か起きてないか! 起きてたら、おいと話しばしてくれ!)」
諦めて隣の棟へ移ろうとした、その時だった。
「(……そこにいるのは誰だべ?)」
独特の訛りを含んだ声が、暗闇の奥から返ってきた。
月明かりがわずかに差し込む場所に、一人の人影が身を起こした。
身長はエフェスより少し低いか。頬はこけ、体は煤と泥にまみれたみすぼらしい姿。だが、その琥珀色の瞳だけは、絶望的な環境にありながらも知的な光を宿していた。
まだあどけなさの残る顔立ち。エフェスと同年代の少年のようだ。
「(おいは、エフェスっていうんだけど、シギロア村の人ば助けるために来たとさ!)」
「(俺はガルド……お前、子どもだべ? 一人で来たんか? 他に仲間はおらんとか?)」
ガルドと名乗った少年は、エフェスの言葉に目を見開いた。こんな場所に、子供がたった一人で忍び込んでくるなど、正気の沙汰ではないと思ったのだろう。エフェスは苦笑した。
「(……ほんとは、他の奴もいたんだけど、ちょっとばかり先に状況ば確認したくて、一人で来たっさ)」
ガルドはしばらくエフェスを見つめていたが、やがて何かを決意したように頷いた。
「(ちょっと待ってろ。父ちゃん、兄ちゃんを起こしてくるから、見つからないようにすんだべ)」
ガルドは音を立てないように、雑魚寝している人々を器用に避けながら奥へと消えた。
エフェスは再び周囲を警戒した。ならず者たちが来る気配はない。しばらくすると、ガルドが戻ってきた。連れてきたのは二人ではなく、一人だった。
「(え? 子ども? 父ちゃんか兄ちゃんを、連れてきたんじゃなかっか?)」
暗がりのせいでよく見えなかったが、ガルドより少し背が高い程度の人物だ。
しかし、近づいてきたその顔を見て、エフェスは自分の勘違いに気づいた。豊かな髭を蓄え、深く刻まれた皺。その瞳には、職人特有の頑固さと誇りが光っている。
男は静かに口を開いた。
「(わしは、ボルム。ガルドの父だ……子どもに見えるのは私たちがドワーフ族だからだろう。そんなことより、エフェス君。野盗たちに見つからないように、早くここから発ちなさい。子どもが一人、ここにいたって捕まるだけだ)」
案の定、追い返そうとする言葉。エフェスは食い下がった。
「(別に、おいが今ここで、あんたらを助けられるとは思っておらん。ただ、このウィグル鉱山のことばシギロア村の人達に伝えて、どうにか全員助けられんか少しでも情報が欲しかっさ)」
ボルムはエフェスの真剣な眼差しをじっと見つめ、やがて溜息交じりに頷いた。
「(……期待はできないが、少しなら話せることは話すから、すぐにここから立ち去るんだぞ)」
ボルムの話によれば、この鉱山には男女子供を含めて五百人ほどの奴隷が詰め込まれているという。対して、ならず者の数は八十人ほど。
昼間は鉱山で魔法石や鉱石の採掘に従事させられ、夜はこの有様だ。ならず者たちの首領は、先ほど見た高台の石造りの建物にいるらしく、そこの警備だけは厳重だという。
一通りの情報を頭に入れたエフェスは、ふと気になったことを尋ねた。
「(あんたらが、働かされている鉱山はどん穴になっとか?)」
「(ん? 四つあるうちの右から二番目だが……それがどうしたんだ?)」
ボルムは不思議そうに首を傾げる。
「(いや、なんでもなか! 聞きたいことは聞けたけん! おいはもう行くけんね!)」
エフェスは窓枠に足をかけ、去ろうとした。
だが、思い出したように振り返り、最後に一つだけ頼んだ。
「(……ぶしつけですまんけど、ちょっと毛布一枚あったら、おいにくれん? 夜が寒くてさ)」
「(は?)」
ボルムとガルドは呆気にとられた。脱出の手助けでもなく、武器でもなく、毛布?
「(私たちは奴隷だから、立派なものは持ってないぞ……)」
ボルムは困惑しながらも、自身の肩にかかっていたボロボロの、煤と泥にまみれた毛布を差し出した。
エフェスはそれを受け取ると、ニッと笑った。
「(ありがと、おじさん。それと、ありがとガルド)」
「(もう、一人で来るなよ)」
ガルドはぶっきらぼうに言い捨て、すぐに寝ようとその場に横になった。ボルムもまた、心配そうにエフェスを見上げた。
「(では、申し訳ないが、シギロア村の人達によろしく頼む。だが、無理はしないでくれ。全員捕まることになっては、申し訳がたたないからな)」
「(うん大丈夫。おいにも、考えがあっけん。しばらくは、よろしく頼むばい)」
「(?)」
しばらくは、よろしく頼む。その言葉の意味を問う暇もなく、エフェスは音もなく窓から姿を消した。
残されたボルムは、手の中の空気を握りしめ、首を捻った。奇妙な少年だった。だが、その瞳には嘘がなかった。
彼はガルドの横に体を横たえ、一枚の毛布を二人で分け合った。




