書く人
「先生の本、読んだことあります?」
七海が、来客前に言った。
「誰の?」
「今日いらっしゃる方の。蕗田修一先生。ミステリ小説で、累計三千万部の」
「……読んだことない」
「そうですね」
七海が、こめかみを押さえた。もう、驚かないらしい。
「今からでも読みますか?」
「今から来るんだろ」
「そうですね」
「じゃあ無理だな」
「そうですね」
澪が、モニターを見たまま言った。「あたしも読んだことない」
「読んでみては?」と、七海。
「面白いの?」
「私は好きです」
「どんな話?」
「人が死んで、謎があって、解決します」
「……全部そうじゃん」
「全部ですが、蕗田先生のは特別です。伏線の張り方が、他の作家と全然違って」
澪が、少し考えた。「読んでみる」
七海が、わずかに嬉しそうな顔をした。
蕗田修一さんは、七十二歳だった。
白い頭。眼鏡。細い体。
一見、どこにでもいる老人だった。
ただ、名前を名乗られた瞬間、七海が、すっと背筋を伸ばした。ファンの人間の体の動きだ、と思った。
「よろしくお願いします」と、蕗田さんが言った。
声が、穏やかだった。
「よろしくお願いします。どこか、悪いところがありましたら」
「手です」
右手を、テーブルの上に置いた。
見ているとかすかに震えていた。
「どのくらいになりますか」
「二年ほど。最初は、コーヒーカップが揺れるくらいでしたが、今は、字が書けません」
「パソコンは?」
「キーボードは、なんとか打てます。でも……」
蕗田さんが、少し、言葉を選んだ。
「私は、手書きで書いてきた人間なんです。ずっと。パソコンで打つと、なんか、出てこないものがあって」
「出てこないもの」
「言葉の、感触というか。手が紙を感じながら書く時と、どうしても、違うんですよ」
俺は、鑑定をかけた。
【蕗田修一/72歳・男】
体の状態:本態性振戦。右手の震えが強い。命に別状はない
本当の状況:今、書いている作品がある。これが最後の小説になると思っている
いちばんの願い:この話を、書き終えて、読者に届けたい。手で
……最後の小説。
俺は、それを見て、一瞬、動けなかった。
命に別状はない。でも、七十二歳で、これが最後の一冊になると思いながら書いている。
「今、書いている途中の作品があるんですよね」
蕗田さんが、顔を上げた。
「見えますか、そういうことも」
「見えます」
「……そうですか」
蕗田さんが、右手を、そっと閉じた。
「もう何年か、かかるかもしれません。でも、書き終えたい。手で、書き終えたい。それだけなんです」
「わかりました。やってみます」
本態性振戦は、神経の問題だ。
炎症でも、骨でも、筋肉でもない。信号が、途中で乱れる。
細かかったが、見えた。乱れているところが、見えた。
丁寧に、整えていく。震えの源を探して、一つずつ、落ち着かせる。
時間が、少しかかった。
光が引いた時、俺は少し、疲れていた。
「手を動かしてみてください」
蕗田さんが、右手を上げた。
開いた。閉じた。
「……震えていない」
もう一度。
「震えていない」
七海が、机の端にあったメモ用紙と、ペンを差し出した。
さすがだ、と思った。俺は気づかなかった。
蕗田さんが、ペンを取った。
ゆっくりと紙に、何かを書いた。
流れるような文字だった。
蕗田さんは、それを見て、しばらく何も言わなかった。
眼鏡の奥が、光っていた。
「……二年ぶりです」
「これで、書けますよ」
「書けますね」
「書いてください。読みたいです、俺も」
蕗田さんが、俺を見た。
「読んだことはあるんですか、私の作品」
「……ないです」
「正直ですね」
「すみません」
「いえ」蕗田さんが、小さく笑った。「じゃあ、この一冊で、ファンになってもらいましょう」
「なります、きっと」
「なってみてから言ってください」
帰り際。
七海が、料金を申し上げた。
「百五十万円です」
蕗田さんは、少しだけ、首を傾けた。
「……これだけ、ですか」
「手の施術に準じたお代です」
「安すぎます」
「先生が決める話ではないです」
蕗田さんが、小さく笑った。「……では、お言葉に甘えます」
七海が、ぺこりと頭を下げた。
「先生の本、ずっと好きでした。ありがとうございます」
蕗田さんが、七海に言った。
「あなたも、本が好きなんですか」
「はい。先生の作品は、全部読んでいます」
「では、新刊が出たら、読んでいただけますか」
「必ず」
蕗田さんが、出ていった。
七海が、しばらく玄関を見ていた。
「……七海」
「……なんですか」
「泣くな」
「泣いていません。乾燥が——」
「今、外は雨だぞ」
七海が、黙った。
「……泣いてました」
「そうだろうな」
俺も、危なかった、とは言わなかった。
「あたし、読む」
澪が、地下から上がってきて、言った。
「蕗田先生の本。今からダウンロードする」
「いいな」と、俺。
「絶対面白い気がする。さっきの人の顔してた、面白い顔」
「それは、わかるのか」
「なんとなく」
七海が、目元を拭きながら言った。
「……本は、電子書籍より紙で読んでほしいです」
「なんで」
「先生が、手で書いているから」
澪が、少し考えた。
「……買う」
七海が、また、目元を押さえた。
今度は、さっきと少し、違う理由で。




