声
その日の客は、小柄なおばあさんだった。
七海が対応に出た瞬間、その顔が、みるみる変わった。
驚き、というより、固まった感じだった。
「……あの、立花、千鶴さんですか」
「ええ」おばあさんは、上品に微笑んだ。「鷹司さんの紹介で」
七海が地下に降りてきた時、顔色が普通じゃなかった。
「青柳さん。大変です」
「何が」
「立花千鶴さんがいらしてます」
「誰」
七海が、一瞬だけ、絶句した。
「……昭和を代表する歌手です。レコード総売上が一億枚を超えていて、NHK紅白に三十二回出場していて、国民栄誉賞も受賞されていて」
「へえ」
「知らないんですね」
「俺、演歌とか聞かないんで」
七海が、深呼吸した。
澪に目を向けると澪もきょとんとしていた。
「澪は?」
「知らない」
「……二人とも、知らないんですね」七海が天を仰いだ。「まあ、いいです。とにかくすごい方です。失礼のないように」
「いつも通りでいいだろ」
「いつも通りが心配なんです」
応接に通すと、立花千鶴さんは、静かにソファに腰を下ろした。
76歳。背筋は真っ直ぐで、所作がきれいだった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
俺は鑑定をかける。
【立花千鶴/76歳・女】
体の状態:声帯の萎縮と炎症。数年前から声が出にくくなっている。現在はほぼ歌えない状態
性格:穏やか、誇り高い我慢強い。弱みを見せない
願い:二ヶ月後、孫娘の結婚式で一曲だけ歌いたい
事情:孫娘とは長年、疎遠だった。今回の結婚式への招待が、十年ぶりの連絡だった
「声のことで、いらしたんですよね」
千鶴さんが、わずかに目を見開いた。「……よくわかりましたね」
「見ればわかります。どのくらい出なくなりましたか」
「三年ほど前から、だんだんと。今は……」
少し間があった。
「普通に話すのは問題ないんですが、歌おうとすると出ないんです。高い音が、まったく」
「歌の仕事は」
「もう何年も、していません。引退、という形にしていますが……本当は、声が出なくなったから、です」
「誰かに言いましたか」
「いいえ。事務所にも、言っていません」
俺は、横の七海を見た。七海が、小さく頷いた。治せる、という確認だった。違う、そういう顔じゃない。
「孫娘さんの結婚式で歌いたいというのが、本当の理由ですよね」
千鶴さんが、少しだけ、表情を崩した。
「……見えるんですね、そういうことまで」
「見えます」
「十年前に、喧嘩別れをしてしまって。先に折れるのが怖くて、ずるずると。そうしたら、十年が経っていました」
「招待状が来て」
「来たんです。……もしかしたら、もう一度、やり直せるかもしれないと思って。それで、何か、できることをしたくて」
「歌で」
「私には、それしかないので」
「直せます」と、俺は言った。「ただ、一個だけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「直したら、また歌いたいですか。結婚式の一曲だけじゃなくて」
千鶴さんは、ゆっくり俺を見た。
「……それは」
「声が戻ったら、どうするかは、ご自分で決めてください。ただ、せっかく戻るんで、一回だけのためにするのは、もったいないかなとは思いますが」
「また、人に言ってますよ」七海が小声で言った。
「いいじゃないか」
千鶴さんが、ふっと笑った。
「……面白い先生ですね」
「よく言われます」
「考えておきます。まず、孫娘の顔を見てから」
声帯の施術は、膝や神経より、ずっと細かい作業だった。
萎縮した細胞を丁寧に起こして、炎症を取って、張りを戻す。
光が、千鶴さんの喉元で、静かに広がった。
「……少し、声を出してみてください」
千鶴さんが、ゆっくりと息を吸った。
そして、低く、短く、音を出した。
次に、少し高く。
また、高く。
部屋が、しんとなった。
七海が、声を出さずに口を押さえていた。
俺には、その声が良いのかどうか、正直わからなかった。
でも、七海の顔を見れば、十分だった。
「……出ます」千鶴さんが、自分の喉に手を当てた。「出ます、声が」
「よかったです」
「三年ぶりに……」
千鶴さんは、それ以上、言葉を続けなかった。
ただ、静かに、目を閉じていた。
帰り際。
七海が、丁寧に見送って戻ってきた。
その目が、少し赤かった。
「……泣いてんの」
「泣いていません。空調が」
「地下じゃないのに」
「どこでも、空調は、強いんです」
澪が、モニターの前でぽつりと言った。
「あの人の声、録音あった。さっきのと同じ声だった」
「聴き比べたのか」
「うん。……すごかった」
澪が、そう言った。
いつもの淡々とした声で。でも、それだけで、十分だった。
お代は、後日、五百万が振り込まれた。
「……少し、安くないですか」七海が言った。
「あの方が決めた額なので」
「そうですね」
「結婚式、うまくいくといいな」
「……そうですね」
七海が、また少しだけ、目を細めた。
塩が、ほんの少しだけ、甘かった。




