もう一度だけ(前編)
鷹司さんからの紹介が、また届いた。
今度は「スポーツ界の人間」とだけ書いてあった。
「……誰ですか」
七海が資料を確認しながら言った。
「藤堂陸。元サッカー日本代表。三年前に引退」
「藤堂陸」
澪が、モニターから顔を上げた。
珍しい。こいつが人の名前に反応するのは、めったにない。
「知ってんの、澪」
「うん。好きだった」
「サッカー、見るんだ」
「見てた。小学生の頃。あの人の動き、変なんだよね。他の選手と全然違う軌道でボールが来る」
「変なの?」
「いい意味で。すごく変」
七海が、小さくため息をついた。「……澪さんの褒め言葉は、独特ですね」
やってきた藤堂は、背が高く、静かな男だった。
ただ、右膝にサポーターを巻いたまま、わずかに足を引きずっている。
「鷹司さんから聞いています。……どんな怪我でも治せると」
「だいたいは。見てみないとわかりません。診せてもらえますか」
藤堂は少し迷ってから、頷いた。
俺は鑑定をかける。
【藤堂陸/31歳・男】
体の状態:右膝の前十字靭帯と半月板に重篤な損傷。手術歴あり、回復が不完全
本当の経緯:三年前の試合中、相手選手から故意のタックルを受けた。偶発的な事故ではない
表向きの引退理由:「膝の怪我による」(事実だが、経緯は伏せている)
なぜ黙っているか:証明が難しい。チームに迷惑をかけたくない。もう終わったことだと思っている
願い:息子に、ボールを蹴るところを一度だけ見せたい。息子はまだ2歳で、父親が選手だったことを知らない
……一度だけ、か。
俺は右膝に手をかざしながら、黙って治し始めた。
損傷した靭帯と半月板を、細胞のレベルから作り直していく。
光が静かに広がって、引いた。
「立ってみてください」
藤堂が立ち上がった。右膝に体重をかけた。
「……痛くない」
「ですね。……ついでにもう少しやっていいですか」
「え?」
「膝だけ治しても、三年のブランクで全身が鈍ってる。せっかくなんで、まとめてやります」
「まとめて、って……」
「痛いことはしません。ちょっと待ってて」
七海が横で静かに目を細めた。「……青柳さん、また仕事の範囲、広げてますね」
「ついでだ、ついで」
俺は両手を広げて、藤堂の体全体に意識を向けた。
三年分のブランクで眠ったままの筋繊維。固まった可動域。鈍った神経の反応。それを全部、現役時代の最高の状態に引き戻すイメージで——いや、それ以上に。細胞ひとつひとつを、生まれたての状態に。
光が、全身に広がった。
数秒後、すっと引いた。
藤堂は、きょとんとしたまま、自分の手を開いたり閉じたりしていた。
「……なんか」
「なんか?」
「体が、変です」
「悪い方向に?」
「……違います。なんか、軽い。すごく軽い。膝だけじゃなくて、全部」
「現役の頃より、たぶん、いい状態になってます」
「は?」
「三年前より動けると思います。試してみないとわかりませんが」
藤堂は、しばらく呆然としていた。
それから、ぽつりと言った。
「……ありがとうございます」
かすれた声だった。
「一個だけ聞いていいですか」
俺は言った。
「はい」
「なんで、一度だけなんですか」
藤堂が、顔を上げた。
「……は?」
「息子に見せたいっていう気持ちはわかります。でも、その膝でまた現役やれますよ。31歳ならまだ全然いける。なんで一回で終わりにするんですか」
藤堂は、しばらく黙っていた。
「……引退した選手が戻るのは、簡単じゃないんですよ」
「そういう話じゃなくて。あなたは本当は、やりたくないんですか」
「……」
「やりたいなら、やればいいじゃないですか。体は今、どこも悪くないんだから」
七海が横で、こめかみを押さえた。「青柳さん。それは余計なお世話では」
「余計なお世話だけど、気になる」
藤堂は、視線を落とした。
「……三年、離れてたんですよ。今さら戻れるかどうか」
「それはやってみないとわからない」
「リハビリも、チームを探すことも」
「全部、後でどうにでもなる話でしょ」
藤堂が、静かに俺を見た。
「……なんで、そこまで言うんですか。仕事は終わったでしょう」
「あなたのこと好きな人、いるじゃないですか。うちに一人」
澪が、ぴくりとした。
「変な動きのボールが見たい人が」
澪は何も言わなかった。ただ、視線をモニターに戻した。
耳が、少しだけ赤かった。
藤堂は、帰り際にもう一度だけ振り返った。
「……考えます」
それだけ言って、出ていった。
「青柳さん」七海が言った。「治療費です。おいくらにしますか」
「一千万でいいです」
「……いつもより、だいぶ安いですが」
「今回は、それで」
七海は何も聞かなかった。
ただ、帳簿に書き込みながら、小さく言った。
「……続きがあるかもしれないですもんね」
その夜。
澪がモニターの前で、何かを調べていた。
「何見てんの」
「……三年前の試合映像」
俺は何も言わなかった。
「りおんが鑑定で見た話、聞いてた」澪は画面を見たまま言った。「あたしのほうで、できることがあるかもしれない」
「……そうか」
「でも、使うかどうかは藤堂さんが決めること」
「わかってる」
澪は、それ以上何も言わなかった。
静かに、フレームを一枚ずつ、送っていた。




