A Little Tale of the Good Old Skies
早朝の爆走配達とは一転して、昼間の特訓は、気が遠くなるほどの「静寂」と「精密」の戦いだった。
初夏の陽光が照りつける一面の青田。
私は相変わらず買い物カゴのついた『ママブル』に跨り、青々とした稲穂のわずか数十センチ上を、這うような超低速で進んでいた。
「速すぎる!ナツ、右足側が下がってる! 稲穂の先端が揺れてるよ!」
あぜ道から日傘を差したハルが、容赦のない声を飛ばしてくる。
時速八十キロで突っ込むよりも、時速五キロを完全に維持することの方が、何倍も精神を削られた。
ジャイロスタビライザーのないママブルは、低速になればなるほど安定性を失う。まるで一本の針の上で片足立ちを続けているかのような、恐ろしいほどの体幹の維持と、繊細なマナの微調整が必要だった。
「わ、わかってるってば……っ!」
じわり、とツナギの中に汗が滲む。
この特訓は、地元の農家さんから請け負った「稲の生育調査」のアルバイトを兼ねていた。
魔法の風でデリケートな稲穂を絶対に揺らさないよう、マナの余波をすべて自分の身体側へ完全に「吸い込む」ようにして飛ぶ。
倒れている稲穂を見つければ、手でそっと起こして支柱を立て、日当たりの悪い場所や成長が遅れている区画を見つけては、手元のメモ帳に記録していく。
だが、神経を極限まで集中させていた、その時だった。
ペチャッ。
「――ぶべっ!?」
視界の端から弾丸のように飛んできた緑色のぬめぬめ――巨大なトノサマガエルが、私の鼻面にダイレクトで張り付いた。
驚きでマナの供給が一瞬だけ途絶える。低速ゆえに、復元力は皆無だった。
「あ、墜ちる」
言葉が認識された瞬間には、私はママブルもろとも、泥深い水田の中へと真っ逆さまに突っ込んでいた。
盛大な泥水が跳ね上がり、顔からツナギまで、文字通り全身泥まみれになる。カエルは満足そうにゲコッと鳴いて泥の中へ消えていった。
「あはははは! 完璧な、お手本のような墜落だね!」
「……笑うなハル! 泥が入った、口の中に泥が……!」
あぜ道に這い上がり、ハルから手渡されたタオルで顔を拭う。
ボロボロの泥人間になった私を見て、遠くの畦で作業をしていた農家のおじいさんとおばあさんが、ガハハと温かい笑い声を上げた。
「こりゃこりゃ、ナツちゃん、ひどい顔だ。ちょうど三時だ、休みにしなさい」
◇
大きな茅葺き屋根の民家の縁側。
冷たい麦茶と、おばあさん特製のふかふかした蒸しパン、そして塩の効いたお漬物が並んでいる。
井戸水で泥を洗い流した私は、縁側に腰掛け、濡れた髪をタオルの上からガシガシと拭いていた。風が通り抜けるたびに、風鈴がチリンと涼しい音を立てる。
「いやぁ、懐かしいねぇ」
おじいさんは、湯呑みをすする目を細めて、私の傍らに立てかけられた不格好なママブルを見つめた。
「昔は、今みたいなお役所の細かいルール(交通規則)なんてなぁ、ありゃしなかった。この田舎の空を、ヤンチャな若い魔女たちがそれこそ蝿みたいにブンブン競争して飛び回ってたもんさ」
「へぇ……そうなんですか?」
ハルが興味深そうに身を乗り出す。おじいさんは楽しそうに頷いた。
「そうさ。ナツちゃん、あんたの叔母さんも、それはそれは跳ねっ返りの魔女でねぇ。ほら、こんな田舎じゃあ魔法を使える子も少ないからさ、数少ない魔女友達と四六時中、意地を張り合って競争してた。今のナツちゃんみたいに田んぼに派手に墜落したり、ゴミ箱に突っ込んだり……ひどい時は、うちのテレビのアンテナに服を引っ掛けて、逆さ吊りになってブラブラしてたこともあったなぁ」
おばあさんが「あったねぇ」とクスクス笑う。
ハルは驚いたように私を見たあと、からかうような、けれどどこか愛おしそうな目でニヤリと笑った。
「だってさ、ナツ。やっぱり、血は争えないね?」
「うるさいな……」
私は赤面して蒸しパンを口に放り込んだ。
けれど、胸の奥が、不思議なほどじんわりと温かくなっていた。
みんなに迷惑をかけて、笑われて、それでも愛されていた、かつての叔母さんの姿。
「叔母さん……会いたいな」
ポツリと、お茶の湯気に向かって呟いた。
私は、自分が「覚醒者の魔女」だと分かった時のことを、今でも鮮明に覚えている。
まだ小学生だった頃、手のひらから溢れ出た奇妙な光。周囲の友達が怯え、遠巻きに私を見るようになったあの日。
何より私の心を切り裂いたのは、報告を聞いた母さんの顔だった。
母さんは、私を見て、泣きそうな、酷く憐れむような顔をして、こう言ったのだ。
『――かわいそうに、ナツ』
その一言が、私の心に冷たい鍵をかけた。魔法なんて、おぞましい病気か何かなんだ。私は普通じゃないんだ、と。
心を閉ざし、殻にこもった私を、その檻から力ずくで引っ張り出してくれたのが、叔母さんだった。
『普通って何だい? 綺麗なお人形さんになることかい?』
叔母さんは笑って、私を自分の黒い箒の後ろに乗せてくれた。
電子制御も何もかもをブチ切った、剥き出しの圧倒的な加速。Gで視界が歪み、涙が溢れた。けれど、雲を突き抜けたその先、見たこともない世界の果てのような青空を見た瞬間、私は生まれて初めて自分のマナが愛おしいと思えたのだ。
魔法は、呪いなんかじゃない。どこまでも自由になれる、私たちの翼なんだと。
「……ナツ?」
ハルが心配そうに覗き込んできた。私は慌てて、何でもないように笑ってみせた。
「ううん、なんでもない。さ、ハル、バイトの続きやろう。これ、今日中に終わらせないと、おじいさんたち困っちゃうから」
「そうだね。次は南側のセクターだよ」
立ち上がり、再びママブルに手をかける。
夕暮れの気配が近づく中、私は少しだけ、自分の身体に流れる血が誇らしくなっていた。
◇
時を同じくして。
西日に照らされた我が家の台所で、母さんは一人、静かに夕食の支度をしていた。
トントン、と小気味よい包丁の音が響く。
母さんは、ふと手を止め、窓の外の裏山――あの古い納屋がある方角を見つめた。
引き出しの中にあった、ナツが持っていった選手ライセンスの申請書。その空白を思い出す。
「かわいそうに、って……あの子は誤解してるわよね」
母さんは、ぽつりと寂しげに独りごちた。
十年前。世界最高峰の舞台から、巨大メーカーたちの利権と貴族の政治によって泥を塗られ、永久追放された姉。
夢を、尊厳を、空を奪われた姉は、文字通り心が壊れていっていた。部屋に引きこもり、抜け殻のようになっていく、かつての天才レーサー。
その姉の瞳に、もう一度だけ微かな光が戻った瞬間があった。
それが、幼いナツが「覚醒者」として魔法を発現させた、あの日だった。
『あの子には、私の不知火を乗りこなせるだけの火種がある。……私の空は終わってない』
そう言って、姉は狂ったように笑い、再び何かを企むように生気を取り戻していったのだ。
母が放った「かわいそうに」という言葉は、ナツに向けられたものではなかった。
あの子が覚醒したことで、またしても宮城島の、そして姉の「狂気の復讐劇」に、最愛の娘が巻き込まれてしまうことが確定してしまった――その運命に対する、母親としての絶望の悲鳴だったのだ。
「でも……世界から追放されて、心が壊れかけていた姉さんを救ったのはナツ。あんたの光だったのよ」
母さんは自嘲気味に微笑むと、再び包丁を握り直した。
夕焼けの赤が、台所を真っ赤に染め上げていく。
何も知らないナツは、今も泥にまみれながら、世界に抗うための牙を研ぎ続けている。




