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The Speed of Delivery

 夏休みが始まった。

 それは、私の青春をすべて使い果たす、ハルの「地獄のブートキャンプ」の幕開けでもあった。


 新聞配達の「慣性制御」、水田での「超精密低速維持」。それに続く第三の特訓は、地元の老舗『まるのや食堂』の出前アルバイトだった。


「はい、ナツちゃん。ラーメン四丁とチャーハン二食、それと餃子ね。冷めないうちに頼んだよ!」


「ま、任せてください……!」

 食堂のおばちゃんから手渡されたのは、鈍い銀色に光る、巨大な三段式の「おかもち」だった。しかも、それを左右の腕に一つずつ、計二個。

 ママブルのステップに足を乗せ、両腕におかもちの凄まじい重量をぶら下げたまま、私は冷や汗を流していた。


「いいかいナツ。今回のテーマは『完璧な制御』だ。スープを絶対に一滴も溢さず、かつ出前が伸びないように制限速度ギリギリの超高速で届ける。今のあんたの荒いマナの出し方じゃ、最初の直線でラーメンは全部油そばになるよ」


 あぜ道からハルが拡声器を構えて指示を出す。

 私は奥歯を噛み締め、両腕の筋肉をきしませながらマナを点火した。

 ――ドォン!

 加速の衝撃。両腕のおかもちが猛烈な慣性で後ろに引っ張られる。

 スープの表面を脳内でイメージしながら、ママブルの傾きをミリ単位で調整する。

 だが、現実はそう甘くはなかった。


 突如として襲いかかる黒い羽音


「――っ!? なに、何これ!?」

 上空のルートに侵入した瞬間、周囲の木々から一斉に巨大な黒い影が飛び出してきた。地元のゴミ捨て場を縄張りにする、獰猛なカラスの群れだ。

 彼女たちの目には、ママブルの尾部に使われている最高級の樫の木の「穂先ブラシ」が、最高の巣材に見えたらしい。


カアァッ! カアァッ!

「痛っ! 突っつかないで! これ、特訓中だから!」

 カラスたちが激しい羽音を立てて、ママブルの穂先を容赦なく啄み、私の髪の毛を引っ掴む。

 視界を黒い羽で塞がれ、両腕はおかもちで完全に塞がっている。姿勢制御がない箒は、一瞬でバランスを失い、機首を真っ逆さまにして墜落の軌道へと入った。


「ナツ、マナを切れ! 落下機能セーフティを作動させて!」


 ハルの悲鳴のような叫び。

 地面が目の前に迫る。時速六十キロ以上の速度で、このままおかもちごと叩きつけられれば――。

 

 カチ、と私の指が、ママブルの軸の底にある、錆びついた緊急レバーを弾いた。

 

 ブウゥゥゥン……!

 フレームの内奥に仕込まれた宮城島製作所の「唯一の良心」が起動する。

 魔力が強制的に遮断され、魔法のクッションのような反発場が機体の下部に展開された。

 ズサササササァァァッ!!! と、激しい砂煙を上げて、私はアスファルトの上を十数メートルも滑り、どうにか停止した。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」

 激しい動悸が止まらない。

 駆け寄ってきたハルが、私のツナギを掴んで、いつになく真剣な、怒りを含んだ目で私を見下ろした。


「……そう、これが現実だよ、ナツ」

「ハル……?」

「現行機なら、カラスに襲われようが気絶しようが、コンピューターが勝手に水平を保って自動着陸してくれる。だけど、この古いママブルや、あの『不知火』にはそれがない。実際のレースでは、ヘルメットやエアバッグ内蔵のレーシングローブを着るけど……一歩間違えれば、大怪我じゃ済まないんだ。……それでも、本当に続ける?」


 ハルの言葉は、冷酷なまでに正しかった。

 でも、私の心は、あの日叔母さんの後ろで見たあの蒼い空を、すでに忘れることができなくなっていた。

 

「……っ、あったりまえじゃん?」

 私は肘の擦り傷をツナギの袖で拭い、不敵に笑ってみせた。


「もう止められないよ、ハル。私はあの空に行くって決めたんだから。……でも、ラーメンダメにしちゃったね。おばちゃんに怒られる……」


 申し訳なさそうに、ひっくり返ったおかもちの蓋を開ける。

 中の丼はひっくり返り、溢れ出た液体が地面を濡らしていた。

 けれど……その液体には、醤油の匂いも、油の浮きもなかった。ただの、透明な『水』だった。


「……え? 丼の中、水?」

「あったりまえじゃん」

 ハルはさっきまでの深刻な顔をどこへやら、ふん、と鼻で笑って見せた。


「素人のナツに本物運ばせたら、何食分のラーメンとチャーハンを僕たちの胃袋に収めなきゃいけないと思ってるの? それも全部ナツの自腹で!」


「もぅーーー! 騙したなぁぁぁ!」


 私は泥だらけの顔で叫んだ。

 でも、心のどこかでホッとしていた。食べ物を粗末にするのは本当に無理だから、水で本当に良かった。

「ははは! さ、特訓の続きだよ! それに慣れてきたら、今度は本当の熱々ラーメンを運んでもらうんだからね!」


「うん……! 今度こそ一滴も溢さないで見せるんだから!」

     

 それからの夏休み、私は文字通り「狂った」ように空を飛び続けた。


 午前四時。

 ママブルで、吹き荒れる暴風を身体の芯線で受け流し、民家のポストのミリ単位の隙間にノーブレーキで新聞を叩き込む。


 午後一時。

 真夏の太陽が照りつける水田の上。視界の端から弾丸のように飛び込んでくるトノサマガエルを、私はママブルを一切揺らすことなく、左手の平手打ち(ビンタ)でパチンと叩き落とせるようになっていた。


 午後四時。

 左右に重たいおかもちを提げたまま、襲いかかるカラスの群れを、超鋭角旋回で手玉に取る。カラスの爪が掠める瞬間におかもちは水平を保ったまま体軸を傾け、逆に風圧でカラスを弾き飛ばす。

 

 泥にまみれ、カエルを叩き落とし、カラスを置き去りにするたびに、私の身体の細胞は、完全に優等生な鎖を破り捨てていた。


 気がつけば、私の右手は、ジャイロスタビライザーのない不格好な古い買い物箒を、まるで自分の手足の延長のように完璧に支配していた。


 欺瞞に塗れた空を塗り替える呪いの弾丸――『不知火』その引き金に指をかける準備は、この猛烈な夏の間に、静かに、しかし確実に整いつつあった。

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