You’re a Postman? —No, I’m a Witch!
午前四時十五分。
世界のすべてがまだ濃い藍色の底に沈んでいる時間、私は地元の新聞販売所の裏手で、凍えるような朝露に身震いしていた。
「――はい、これがナツの分の百五十部。落としたり破いたりしたら給料から天引きだからね」
販売所の所長から手渡されたのは、ずっしりと重い朝刊の束だった。インクの匂いが鼻を突く。
私はそれを、愛機である宮城島製作所製『ママブル』の前部ワイヤーカゴに、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ。ただでさえ不格好な買い物箒が、文字通り「実用性の塊」へと変貌する。
「……ハル。これ、前が重すぎて重心が完全に狂ってるんだけど」
「当たり前じゃん。新聞百五十部で約三十キロ。それがフロントのカゴに集中してるんだ。いつものONDA機みたいに、機体が自動で前後のピッチを水平に保ってくれると思ったら大間違いだよ。ほら、早く跨って。配り終えるまでに夜が明けちゃうよ」
ハルは自分の愛車である古いマウンテンバイクに跨り、首からストップウォッチを下げて不敵に笑っている。
私は大きく息を吐き、フカフカしたママブルのシートに腰を下ろした。
右手を樫の木製芯フレームに添え、内なるマナを意識的に送り込む。
――ガタガタガタッ!
電子音の代わりに、フロントのワイヤーカゴが激しく震動した。
マナがルーン回路を通らずに、ダイレクトにフレームへと伝わる感覚。ジャイロスタビライザー(姿勢制御装置)がないため、三十キロの新聞の重みが、そのまま私の両腕に「ズシッ」と、生々しい負荷として圧し掛かってくる。
油断すれば、一瞬で機首が地面に突っ込んで前転する――そんな凶暴なアンバランスさを、私は自分の背筋の筋力と、太ももの締め付けだけで無理やり押さえ込んだ。
「よし、バランスは保ててるね。制限速度は解除してある。最初の配達先は、あそこの坂の上の田中さん宅。ルートは水田の上の最短直線。……スタート!」
ハルがストップウォッチを押す。
私は奥歯を噛み締め、マナの流量を一気に引き上げた。
――ドォンッ!!
ママブルが、爆発的な推進力で夜気をもぎ取った。
「う、わああああっ!?」
視界が猛烈な勢いで後ろへと流れる。時速は一瞬で三十キロを超えた。
いつも乗っている『トゥモロー』の、あのぬるま湯のような加速とは何もかもが違う。カウルがないため、遮るもののない暴風がダイレクトに顔面を殴りつけ、呼吸がまともにできない。
おまけに、フロントが重いせいで、風圧を受けるたびに機首が不規則に上下へブレようとする。
「ジャイロがないってことは、風の抵抗も全部自分の身体で受けるってことだ! 姿勢を低くしろ、ナツ! 箒の真上に、自分の脊椎を完全に重ね合わせるんだ!」
下方のあぜ道を、ハルが猛烈な勢いで自転車を漕ぎながら叫んでいる。
私は言われた通り、フカフカのシートに胸がつくほど上半身を伏せた。
カゴの新聞が風で飛びそうになるのを、左手で押さえつけながら、右手一本でママブルの軸をコントロールする。
不思議な感覚だった。コンピューターの介入がない分、空気の「厚み」が、手のひらを通じてダイレクトに伝わってくる。
今、右側に強い上昇気流が当たっている。
今、フロントのカゴが風を孕んで、機体を後ろにひっくり返そうとしている。
そのすべての情報を、脳ではなく、皮膚と筋肉が敏感に察知していく。
「見えてきたよ! 田中さん宅の門柱、ポストの隙間は横幅三十センチ! 減速せずに叩き込め!」
前方、闇の中に和風建築の立派な門構えが見えてきた。
現在の対地速度、約時速五十キロ。
(減速しなきゃ、激突する――!)
恐怖で右手が縮こまりそうになる。いつもなら、自動ブレーキが勝手に作動して安全な速度まで落としてくれる局面だ。
だが、このママブルにはそんな親切な機能はない。私がマナを絞らなければ、そのまま門柱に激突して肉片になるだけだ。
「マナを絞るな! 慣性を味方にしろ! 激突する直前に、右側にマナを一瞬だけ『爆発』させて体軸を傾けるんだ!」
ハルの怒声が耳を突き抜ける。
信じるしかなかった。
門柱が目の前に迫る。あと、十メートル、五メートル――。
「……そこッ!!」
私は右手のひらに、一瞬だけ鋭いマナの衝撃を込めた。
ママブルの剥き出しの木製フレームが、私の意志に応えて「キィン」と甲高い鳴き声を上げる。
刹那、ママブルの機体が、右側へ九十度近くカッと傾いた。
しかし、傾けすぎた。
ジャイロがない機体は、私の体重移動を過剰なまでに拾ってしまう。三十キロの新聞の慣性に、私の腕力が完全に負けた。
「あっ――」
ポストの隙間に放り投げた新聞は、見当違いの虚空へと舞い、
ガガガガガガガバシャァァァン!!!
「痛たっ……!」
私は勢い余って、並んでいたプラスチック製の大型ゴミ箱へと、文字通りノンブレーキで突っ込んでいた。生ゴミのバケツがひっくり返り、頭からポリ袋の山を被る。
ママブルのカゴがひしゃげ、新聞が数冊、泥水に浸かってしまっていた。
「ナツ! バカ、突っ込みすぎ! 体軸の復元が遅いんだよ!」
ハルが自転車を急停止させ、呆れた声を上げる。
「うぅ……言うのは簡単だけどさあ……!」
頭の上のゴミを払いながら立ち上がる。散々だ。でも、不思議と悔しさよりも「今の動き、もっとこうすれば」という感覚が、指先に残っていた。
泥を払い、濡れた新聞を予備と差し替え、再び飛び立つ。
だが、地獄のブートキャンプは始まったばかりだった。
次に狙った鈴木さん宅。今度は減速しすぎて、姿勢制御を失い、生垣のバラの棘に突っ込んでツナギをボロボロにした。
さらにその次、高橋さん宅の細い塀の上のルートを低空飛行で攻めようとした瞬間――暗闇の中から、縄張りを荒らされた地元のボス猫が、威嚇の咆哮を上げながら私の顔面めがけて飛びかかってきた。
「ふぎゃああああああっ!? ネコ、猫が乗ってきたぁぁ!」
「何やってるのナツ! バランス崩れてる、高度維持!」
「無理無理無理! 顔引っ掻かれてるってば!!」
視界をモフモフした怒れる質量に塞がれ、あえなく撃沈。民家の物干し竿に引っかかり、敷布団を巻き込んで盛大に地面へ転がった。
全身アザだらけ、ツナギはボロボロ、髪の毛には草が絡みついている。
それでも、日の出が迫り、空が完全に白み始める頃には、私の身体は確実に「変化」していた。
どう身体を傾ければ、風がどこへ逃げるのか。
どれだけマナを込めれば、ジャイロなしで水平を維持できるのか。
理屈じゃない。骨を伝う振動が、そのまま私の神経に直結していく。
そして、午前五時五十分。最後の配達先、急斜面の頂上にある佐藤さん宅。
残る新聞は、あと一部。
地平線から太陽の頭が覗き、強烈な朝陽が私の目を射る。
「ナツ、ラスト! ここ、下からの吹き上げが強い! 捕まらないように、マナを縦に絞れ!」
ハルがストップウォッチを握りしめ、声を枯らして叫ぶ。
斜面の下から吹き付ける不規則な突風。ママブルの木製フレームが、みしり、と軋んだ。
いつもの私なら、風の冷たさに怯んでマナを緩めていただろう。
だけど、今の私は違う。
(風の通り道を……作る!)
私はママブルの軸を思い切り引き絞り、自身の体幹を完全に固定した。
正面から受ける突風を、あえて機体を数ミリだけ傾けることで、背後へと受け流す。
ママブルが、弾丸のように加速した。
佐藤さんの門柱が迫る。
バラの棘も、ゴミ箱も、怒れるデブ猫も、もう怖くない。
激突のコンマ一秒前。
私は右手のひらに、今日一番の鋭いマナの火花を爆発させた。
「――いっけぇぇぇぇ!!」
カッ、とママブルが右に傾く。
ステップが地面の砂利をかすめ、火花が朝焼けの中に散った。
完璧なまでの超鋭角旋回。
私の左手から放たれた最後の新聞が、美しい直線を破って、ポストの狭い隙間へと――スポンッ!! と、吸い込まれるように綺麗に収まった。
慣性のままに朝焼けの空へと突き抜け、私は大きく旋回した。
全身を包むのは、強烈な達成感と、風と完全に一体になった爽快感。
「やった……やったよ、ハル! 完璧に入った!!」
ママブルのサドルに跨ったまま、私は拳を突き上げてハルを見下ろした。
ハルもまた、ストップウォッチを掲げながら、今日一番の大きな笑顔で応えてくれた。
「うん! 最後のセクターは完璧! 宮城島のポテンシャルを、完全に引き出してたよ!」
着陸し、息を切らせながら二人でハイタッチを交わす。
ボロボロだけど、最高に気分のいい朝だった。これなら、この調子で不知火も――。
そんな私の淡い期待は、ハルが手元の時計を真顔で凝視した瞬間に、木っ端微塵に打ち砕かれた。
「……あ。でもナツ、全体の所要時間、目標より十二分オーバー」
「えっ」
「新聞濡らしちゃった分の弁償代と、途中で弁償することになった佐藤さんの家の物干し竿の修理費を差し引くと……はい、今日のバイト代は無しね!」
ハルが事務的に、無慈悲な現実を告げる。
「そ、そんなあああああーーーっ!? あんなに頑張ったのに!?」
「あたりまえじゃん、ビジネスは甘くないの。ほら、急いで片付けて学校行くよ!」
朝焼けに染まる田舎道。
ボロボロのツナギを着た私と、ひしゃげた買い物カゴを引っ提げたママブルの、長くて熱い夏は、まだ始まったばかりだった。




