are you ready?
昨夜の暴走が嘘のように、裏山の納屋に佇む『不知火』は、静かに漆黒の闇に沈んでいた。
だが、私の右手のひらには、まだあの樫の軸から流れ込んできた生のマナの、皮膚を焦がすような熱い残響がハッキリと残っている。
「――猛反対、されると思ったんだけどな」
翌日の放課後。西日が差し込むハルの家のガレージで、私は作業ツナギに着替えながら苦笑いした。
昨夜、意を決してお母さんに「アマチュアの草レースに出たい」と打ち明けた時、大喧嘩になる覚悟だった。けれど母さんは、私の手のひらの微かな火傷痕をじっと見つめたあと、深く、深くため息をついてこう言ったのだ。
『姉さんの遺した物を見つけたのね。……反対しても、あんたは行くんでしょう。血は争えないわ』
それだけ言うと、母さんは引き出しから、選手ライセンスの申請書を黙って差し出してくれた。
◇
「ナツのお母さんも、覚悟を決めてたんだよ。あの『宮城島の呪い』が、いつかナツを見つけるって」
ハルは、油の染みたウェスで工具を拭きながら、真剣な目で私を見た。
ガレージの中央には、昨夜の不知火ではない、別の箒が作業台に据え付けられていた。
……いや、箒と呼ぶべきか。それは近所の主婦たちが夕方のスーパーへの買い出しに使う、宮城島製作所の大ヒット作――通称『ママブル(ママさんブルーム)』の初期型だった。
前部には実用性重視の大きなワイヤーの買い物カゴ、サドルには肉厚で柔らかいシート。あまりにも生活感の塊のような外見に、私は思わず目を丸くする。
「……ハル。いくらなんでも、これで特訓は無理じゃない? 私が乗ってる『トゥモロー』よりさらに遅そうなんだけど」
「ナツ、外見に騙されちゃダメだ。宮城島がレース界を追放された後、食いつなぐために苦肉の策で作ったのがこのママブルさ。だけどこれ、中身は『レース機のデチューン版』なんだよ」
ハルがニヤリと笑い、ママブルを渡してきた。
私は息を呑んだ。
外見の所帯じみた雰囲気とは裏腹に、カウルの下にあったのは、驚くほど軽量に、かつ鋭利にシェイプされた最高級の木材フレームだった。
「見てみなよ。レース技術をそのまま転用した軽量高剛性フレーム。そして初期型だから、安全装置は『マナ切れを起こした時に安全な高度まで自動降下する機能』だけ。今のONDA機なら標準装備されてるジャイロスタビライザーも、姿勢制御のICチップも、なーんにも入ってない。おまけに……ほら、ここのステップゴム」
ハルが箒の足置きを指差す。その不気味なほど無骨な形に、私は見覚えがあった。
「基本設計が『不知火』とまったく同じなんだ。つまり、共用パーツが山ほどある。買い物カゴと柔らかいサドルが付いてるだけで、このママブルは、電子制御に甘えたあんたの身体を叩き直すには最高の練習機なんだよ」
ハルはママブルをコンッと叩いた。
「いいかい、ナツ。昨日、あんたは『不知火』にマナを流して、あいつの目覚めさせた。だけど、あれはただ『起こした』だけだ。不知火はレッドゾーンを超えた瞬間に、表向きのルーン回路を突き破って神代文字の力を爆発させる。ジャイロも電子制御もないその超高推力の世界に、今のあんたの『現行機』に飼い慣らされた奇麗なお行儀のいい飛び方で突っ込んだら、最初のコーナーで風の塊に肉体をバラバラに引き裂かれるよ」
ハルの言葉の重みに、喉が渇く。
私は作業台の『ママブル』のサドルに触れた。フカフカしたシートの奥に、世界を獲りかけた宮城島の狂気なレース技術の鼓動を感じる。
「だから、まずはこのママブルで、あんたの身体に染みついた電子制御の癖を全部叩き落す。マナをICチップに委ねるな。あんたの血の巡り、呼吸、そのすべてをこの軸に直接ブチ込む感覚を覚えるんだ」
「……いいよ。やってやろうじゃないの」
私は不敵に笑ってみせた。けれど、ハルは笑わなかった。眼鏡の奥の目が、沈痛な、どこか怒りを孕んだような光を帯びる。
「……ナツ。あんた、本当は知っているんだろ。叔母さんが、なんで三年前、世界のトップリーグ『B-1』から突然姿を消したのか」
心臓が、冷たい氷を押し当てられたように縮み上がった。公式の記録では、ただの「一身上の都合による失踪」とされている。けれど私は、我が家の開かずの引き出しにあった、黒く塗りつぶされた誓約書の断片を見たことがあった。
「……追放、されたんだよね」
「そうさ」
ハルは工具を乱暴に机に置いた。硬質な金属音がガレージに響く。
「叔母さんは、ONDAやアイトスといった巨大メーカーが作り上げた、利権と電子制御の『美しい箱庭』を、宮城島が作ったあの違法機――『不知火』で文字通りブチ壊しちまったんだ。メーカーの計算を遥かに超えた速度、人間のマナの限界を超えた文字通りの神速。恐怖した上層部と大企業は、叔母さんに『レギュレーション違反』の濡れ衣を着せて、世界の空から永久に追放した。宮城島も技術を封印され、この買い物箒を作るしかなくなったんだ」
ハルの拳が、小刻みに震えていた。
「叔母さんは、世界に負けたんじゃない。お行儀のいい奴らの政治に、空を追われたんだ。この不知火は、叔母さんと宮城島が、世界に突きつけた最後の拒絶の形なんだよ。……だからさ、ナツ。その遺志を継ぐあんたが、最初のレースで無様に墜落するなんて、僕が絶対に許さない」
ガレージの中に、張り詰めた沈黙が流れる。
夕闇が迫る中、私は自分の胸の奥で、ドス黒い、けれど純粋な炎が燃え上がるのを感じていた。
叔母さんを追放し、空に目に見えない檻を回した奴ら。
安全という名目で、人間の可能性と、魔法の本当の輝きを奪った世界。
「ハル」
私は買い物カゴのついたママブルをガシッと掴み、跨ぐように構えた。
「やろう。その、地獄の特訓ってやつを」
「……フン。泣き言を言っても、地上には降ろしてあげないからね」
ハルが不敵に笑みを取り戻し、ガレージのシャッターを跳ね上げる。
目の前に広がっていたのは、どこまでも続く田舎の、美しい水田の広がりと、遮るもののない広大な夕焼け空。
「第一段階。早朝の新聞配達アルバイトだ。速度制限を解除したこのママブルで、民家のポストのミリ単位の隙間に、ノーブレーキで新聞を叩き込む。ジャイロなしで風を読み、慣性を制御し、空間を把握しろ。……行くよ、ナツ。あんたの夏を、ここで全部使い果たすんだ!」
私のマナが、ママブルの剥き出しの木製フレームに流れ込む。
電子音はない。ただ、カゴをガタガタと鳴らしながら、怪物のデチューン機が、私の腕を伝って魂へと響いた。




