To You at Sixteen
魔法が、奇跡の座から滑り落ちて久しい。
現代において魔法は、電子レンジや洗濯機、あるいはスマートフォンの通信規格と同じ「便利な日常」の一部に過ぎなかった。
国内最大手の恩田魔法技研(ONDA)や、海外の巨大多国籍メーカーが、緻密な論理式とシリコン製のICチップで制御された「安全でクリーンな箒」を市場に溢れさせ、空は目に見えないレーザーで管理された交通路となった。
最高速度は時速六十キロに制限され、高度は三〇〇メートルを維持。セーフティ機能が二十重に張り巡らされた現代の空は、お行儀が良くて、そして何より退屈だった。
しかし、かつてそこは戦場だった。
第一次世界大戦。黎明期の複葉戦闘機と渡り合い、対空砲火の雨を潜り抜けた魔女たちは、箒をただの「飛翔道具」から、限界を超えて肉体を加速させる「マシン」へと変えた。血を吐くような強烈な加速度(G)、重力を無視した鋭角の超高速旋回。
戦後、生き場を失った彼女たちが始めた命がけの競争――それが、空のF1と呼ばれる世界最高峰のマジックスポーツ『B1グランプリ』の始まりだ。
今やそれは何千億もの金が動く華やかな一大エンターテインメントへと変貌を遂げたが、その深淵には、かつて「神」や「荒ぶる自然現象」をその身に宿そうとした職人たちの、狂気と情熱が今も眠っている。
そして、私の手元にあるのは、その狂気の最も深い底から引きずり出された、世界を揺るがした一振りの遺物だった。
「ナツ、お誕生日おめでとう!」
母さんの明るい声と、甘酸っぱいケチャップソースが焦げるハンバーグの匂い。十六歳の誕生日を迎えた食卓は、いつも通りの温かさに満ちていた。
けれど、私は自分の笑顔が少しだけ引きつっているのが分かった。自分が少しだけ嫌いだった。
数万人に一人という確率で現れる「覚醒者」の魔女として、私はこの日本の片田舎で、ずっと奇妙に浮き上がった存在だった。幼馴染のハルは「空を飛べる能力なんて、めちゃくちゃ格好いいじゃん!」と無邪気に言ってくれる。けれど、私にとって魔法とは、周囲と自分を隔てる目に見えない壁のようなものだった。
学校への通学路、私に与えられているのはONDA製の量産普及機『トゥモロー』だ。
日本中の魔法使いの学生や主婦、郵便配達員が乗っている、安くて絶対に壊れない、お買い物用・通学用箒のベストセラー。
プラスチック製の丸っこいカウルに、親しみやすいパステルカラー。その中身は、お役所指定の厳格な安全制御チップを組み込んだ、まさに「お行儀の良さ」を絵に描いたような機体だった。
魔力を流せば「ピッ」と間の抜けた電子音が出迎えてくれ、誰がどう乗っても寸分の狂いもなく、安全に時速四十キロでふんわりと浮き上がる。
どれだけ急加速しようとしても、ICチップが「危険」と判断して出力を優しくカットする。
まるで、車輪のついた介護用車椅子で、舗装された廊下を進路通りに進まされているような感覚。
私は、自分が持て余している「魔力」という名の熱量が、トゥモローの退屈な電子制御の檻の中でじわじわと腐っていくような気がしてならなかった。私には、このお行儀のいい空は狭すぎる。
食事が終わり、自室に戻ると、机の上に一通の手紙が置かれていた。
差出人は、三年前に突如として世界の空から姿を消した叔母。
かつて最高峰の『B1グランプリ』世界リーグでトップレーサーとして君臨し、その圧倒的な速さで世界中のファンを狂熱させた。我が一族の、あるいは世界の空の伝説だ。
『十六歳になったナツへ。
もしあんたが、まだあの狭い空に退屈しているなら、裏山の古い納屋を開けなさい。
そこに、私が世界を置き去りにした最後の悪あがきがある。
電子回路に飼い慣らされた空が本物かどうか、あんたのその身体で確かめておいで』
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
夜の帳が降りた午後九時。私は寝間着の上から厚手のパーカーを羽織り、家族に気づかれないよう裏口から抜け出した。
初夏の夜風は肌寒く、草むらからは虫の声が五月蝿いほどに響いている。
手元のスマートフォンで足元を照らしながら、鬱蒼とした雑木林の獣道を進む。その突き当たりに、蜘蛛の巣と蔦に覆われた、今にも崩れそうな木造の古い納屋が佇んでいた。
錆びついた南京錠が掛けられていたが、叔母の手紙に同封されていた真鍮の鍵を差し込むと、驚くほど滑らかに「カチリ」と音がして外れた。
ギギギ……と、何十年も油を差されていない不気味な悲鳴を上げて、木製の扉が開く。
立ち込めるカビの匂い、埃の匂い。
ライトの光を正面に当てた瞬間、私の呼吸が止まった。
納屋の中央。埃よけの油紙に包まれた、歪な「塊」がそこにあった。
今私が乗っている『トゥモロー』のような、愛嬌のあるプラスチックのカウルもない。
それは、樹齢数百年はあろうかという巨木の「樫の木」の芯材を、職人が荒々しく削り出したような、無骨極まる一本の太い「軸」だった。
「なに、これ……?」
私は引き寄せられるように歩み寄り、その油紙を引き剥がした。
むき出しになったのは、黒一色に染め上げられた、まるで長大な槍か弾丸のような箒。全体を包むのは、現代の流体力学をあざ笑うかのような、荒削りで暴力的なフォルムだ。
さらに異質なのは、その軸の表面だった。
ONDAが使う幾何学模様の美しいルーン文字ではない。そこには、ノミで力任せに抉り取られたような、禍々しい『神代文字』の一文が、呪詛のように深く焼き付けられていた。
現代の最大手メーカーが、魔法を「安全なプログラム」として制御しているのだとすれば、この箒は、魔法を「神の荒ぶる性質(現象)」そのものとして剥き出しのまま固定している。そんな異常な設計思想が、見るだけで伝わってきた。
「――やっぱり、ここに来たんだね、ナツ」
突然、背後から声をかけられ、私は飛び上がった。
振り返ると、そこには夜露に濡れたオーバーオール姿のハルが立っていた。小脇に魔導工学の専門書と、ツールボックスを抱えている。
「ハル!? なんでここに……」
「ナツの叔母さんが姿を消す前、僕に言ったんだよ。『あの子が十六歳になったら、きっと退屈に耐えかねてここに来る。その時は、機械オタクのあんたが手伝ってやりな』ってさ」
ハルは眼鏡の奥の目をらんらんと輝かせ、私を通り過ぎてその黒い箒の前に跪いた。プローブの画面に表示される異常な数値を凝視する。その口元が、狂ったように吊り上がった。
「信じられない……これ、ただのカスタム箒じゃない。宮城島製作所が遺した、歴史の闇に葬られたはずの幻の一振りだ……!」
「宮城島製作所……? 今は『ママブル』とか作ってる、あのローカル企業?」
「そう、今の宮城島も十分変態なんだけど、三十年前は違ったんだ。他社がルーンの回路で魔力を『濾過』して安全に使うのに対して、宮城島は乗り手の魔力をそのまま爆発燃焼させる設計思想を選んだ。そのせいで、テストパイロットが何人も空の藻屑になったっていう……。これはその最高到達点にして、業界から完全に登録抹消された違法機――を、建前上は規約に沿ってルーン回路で動いているように手直しされた機体」
「……え? 手直し?」
困惑する私に、ハルは興奮を隠せない早口で捲し立てた。
「そうさ! 叔母さんが世界リーグを追放され、宮城島自体もレース界から締め出される直前、最後に残した最高のリベンジがこれなんだよ。箒検の測定プローブを当てても、表面上のルーン文字回路しか検出されない。お役所の目が光る通常域では、まるでお行儀の良い優等生のように振る舞う。だけど、マナの回転数が限界を超えたその瞬間――回路の裏側に隠されたこの『神代文字』に一気にマナが流れ込んで、剥き出しの爆発燃焼へと切り替わる仕組みになってる。完成と同時に叔母さんが追放されて失踪したから、日の目を見ることのなかった……世界を騙すために作られた、宮城島製作所と叔母さんの最後の一振りだよ」
世界を騙す、最後の一振り。
その言葉の響きに、私の身体の奥底に眠っていたマナが、まるで共鳴するようにドクドクと脈打ち始めた。恐怖を遥かに上回る、強烈な興奮。
「ハル。これ、動くの?」
「バカ言わないで! こんなのにマナを流したら、最悪、魔力暴走を起こしてナツの神経回路が焼き切れるよ! 現代の安全なトゥモローで育った魔女じゃ、この化け物の出力には耐えられ――」
ハルの制止を振り切り、私の右手は、吸い寄せられるように『不知火』の樫の軸へと伸びていた。
木の生々しい凹凸。ザラついた感触。
私は、自分の内側にある、あの檻の中で腐りかけていた泥臭いマナを、一気にその軸へと叩き込んだ。
――ッ!!!
電子音なんて鳴らなかった。
代わりに、脳髄を直接揺るがすような、狂暴な獣の「咆哮」が鼓膜の奥で轟いた。
ズウゥゥゥゥン……!
納屋の床板が激しく震動し、周囲の埃が一斉に舞い上がる。
不知火の軸に刻まれた神代文字が、網膜を焼き切らんばかりの、青白い燐光を放ち始めた。
表面の欺瞞のルーンを内側から焼き破るように溢れ出たのは、まるで空の境界を無理やり抉じ開けようとする「雷の爪痕」そのものだった。
「きゃああっ!?」
ハルが衝撃波に押されて後ろに転倒する。
不知火の軸から溢れ出た生の魔力が、周囲の空気を一瞬でプラズマ化させ、バチバチと青い火花を散らす。オゾンと、何かが焦げたような暴力的な匂いが立ち込める。
私の腕を通じて、不知火の『飢餓感』が流れ込んでくる。
もっとマナをよこせ。もっと肉体を差し出せ。そうすれば、お前が望む、本物の空へ連れて行ってやる、と。
「……ッ、くうゥゥゥ!!」
歯を食いしばり、暴れる軸を両手で押さえつける。
全身の血管が沸騰するような熱さに満たされ、私は恐怖で涙をこぼしそうになりながらも、確かに笑っていた。
これだ。この圧倒的な暴力。この狂気。
あの優等生なトゥモローとは似ても似つかない。これこそが、世界に追放された叔母さんが残した、檻をブチ壊すための本物の「魔法」だ。
「ハル……!」
私は、青白い光の中に佇む親友を振り返り、叫んだ。
「私、これに乗る。この化け物で、叔母さんが消えたあの空を、追いかけるんだから!」
床にひっくり返ったまま、ハルは唖然として私と不知火を見上げていたが、やがて、眼鏡の奥の目を諦めたように、けれどこれ以上ないほど不敵に細めた。
「……言っとくけど、僕の特訓は地獄より厳しいからね。宮城島の弾丸を乗りこなすには、あんたのそのトゥモロー乗りのお行儀のいい身体を叩き直さなきゃいけないんだから」
窓の外、初夏の夜空には、どこまでも広大な、そして冷徹な蒼い暗闇が広がっていた。
私とハル。世界を欺く呪いの弾丸『不知火』。
泥を這い、死線を潜り抜ける、私たちの最高に狂った夏が、ここから始まろうとしていた。




