第9話 狩猟祭に、本物の暗殺者は契約外です
王都の郊外に広がる広大な森。
今日は年に一度、王家が主催する狩猟祭の日だった。
色鮮やかな天幕が張られ、着飾った貴族たちが談笑する中、私は本日の『業務指示』を憂鬱な気分で確認していた。
【本日の業務指示:狩猟の休憩中、王太子に執拗に付きまとい、邪険に扱われること】
星名部長から「強制執行役」の投入を宣告されて以来、私は絶対にこのポジションを手放すわけにはいかなくなった。
私がクビになれば、リリーナが確実に傷つけられる。だから、このくだらない嫌がらせ業務も完璧にこなさなければならない。
私は日傘を開き、王太子ヴィルヘルムが休憩しているという森の奥の専用天幕へと歩き出した。
その道すがら、私はふと周囲の違和感に足を止めた。
「……おかしいわね」
私は頭の中に記憶している『進行表』と『警備交代表』の情報を引き出した。
現代の事務職において、イベントのタイムスケジュールと人員配置を頭に入れるのは基本中の基本だ。この世界でも、私は文書院の記録やメイドたちの会話から、今日の警備シフトを完全に把握していた。
今の時間帯、この区画には近衛隊の第三小隊が配置されているはずだ。
しかし、天幕の周囲には人影がまったくない。シフトの交代時間でもないのに、警備にぽっかりと「穴」が空いている。
(ただのサボり? ……いいえ、いくらなんでも王太子の護衛を無断で外すはずがないわ)
嫌な汗が背中を伝う。
先日、夜会でリリーナのワインが危険物にすり替えられていた事件が脳裏をよぎった。あの時も、会社の台本にはない『本物の悪意』が介入していた。
私は日傘を閉じ、周囲の樹木を注意深く観察した。
風もないのに、天幕を見下ろす大木の枝葉が不自然に揺れている。そして、葉の隙間からチラリと、冷たい金属の反射光が見えた。
「っ!」
弓だ。矢尻が、天幕の前で水筒に口をつけているヴィルヘルムの背中を正確に狙っている。
会社の台本に、こんな暗殺イベントは一切書かれていない。これは完全に予定外の、本物の暗殺者だ。
「殿下!!」
私は悪役令嬢としての淑女の振る舞いも、マニュアルの台詞もすべて投げ捨て、ヒールを蹴り脱いで泥の地面を全力で駆け出した。
「右の丸太の裏へ伏せて!! 木の上に敵がいます!!」
ドレスの裾が泥にまみれるのも構わず、私は声を限りに叫んだ。
ヴィルヘルムが驚いてこちらを振り向く。
普通なら、自分を付き纏う悪女の突然の奇声など、ヒステリーか何かだと無視するだろう。
しかし、彼は違った。
私の切羽詰まった表情と、具体的に『退路(右の丸太)』を指示した言葉を聞くや否や、一切の躊躇なく地面を蹴った。
ヒュンッ!という鋭い風切り音とともに、彼がたった今まで立っていた場所に黒い矢が深々と突き刺さる。
「ヨリエル!」
ヴィルヘルムは自ら遮蔽物へ飛び込むと同時に、こちらへ向かって走ってきていた私の身体を、その長い腕で力強く引き寄せた。
「きゃっ!」
勢いよく地面に転がり、巨大な丸太の裏へと滑り込む。
ドスッ、ドスッ、と私たちが隠れた丸太に、続け様に放たれた矢が突き刺さる音が響いた。
「っ……怪我はないか、ヨリエル!」
丸太の陰で、ヴィルヘルムは私を自身の身体の下に庇い込むように覆いかぶさり、低い声で尋ねた。
すぐ目の前に、彼の端正な顔がある。氷のように冷たいはずの青い瞳が、今は焦燥と熱を帯びて私を覗き込んでいた。
軍服越しの硬い胸板から、彼の力強い心音が伝わってくる。
「わ、わたくしは平気です。殿下こそ……」
「私も無傷だ。君の指示が的確だったおかげだ。……それにしても」
ヴィルヘルムは周囲を警戒しながら、微かに口角を上げた。
「私の命を狙う暗殺者の位置を正確に把握し、近衛兵よりも早く的確な退路を指示する悪役令嬢など、前代未聞だな」
「……たまたま、警備のシフト表と配置が違うことに気づいただけですわ」
こんな状況でも私を観察してくる彼に、私は顔が熱くなるのを感じながらそっぽを向いた。
「警備の穴にまで気づいていたのか。君は本当に……計り知れないな」
ヴィルヘルムの瞳に、深い信頼の色が宿る。
好感度の数値などではない、共に死線を潜り抜けた人間に対する、確かな信頼だった。
「曲者だ! 殿下をお守りしろ!!」
遅れて、周囲から近衛兵たちの怒号が響き渡った。
木の上に潜んでいた暗殺者は、襲撃が失敗したことを悟り、逃亡を図ろうと木から飛び降りた。
しかし、その先にはすでに抜刀した一人の騎士が待ち構えていた。ヴィルヘルムの側近である護衛騎士、ギルベルトだ。
「遅い。おとなしく捕縛されろ」
ギルベルトの剣の峰が暗殺者の鳩尾にクリーンヒットし、男は呻き声を上げて崩れ落ちた。
周囲の安全が確保されたことを確認し、ヴィルヘルムは私を庇っていた腕を解き、ゆっくりと立ち上がった。そして、泥に汚れた私に手を差し伸べて引き起こしてくれた。
「殿下、ご無事ですか!」
ギルベルトが駆け寄り、片膝をついて首を垂れた。
「ああ。ヨリエルの機転に救われた。暗殺者はどうなった」
「生け捕りにしました。口の中に毒を隠していましたが、すでに吐き出させております。それと、懐から妙な物が出ました」
ギルベルトが差し出したのは、革製の小さな袋だった。
ヴィルヘルムが袋を開けると、中から精巧な細工が施された木札が出てきた。
「……グランツ宰相府の印」
ヴィルヘルムが忌々しげにその木札を睨みつける。
やはり、あの夜会のワイン事件と同じく、病床の国王に代わって実権を握ろうとする宰相の差し金だったのだ。
周囲の騎士たちが息を呑み、現場の空気が一気に張り詰める。
だが、私の視線は、ヴィルヘルムの持つその木札の『裏側』に釘付けになっていた。
(嘘……。なんで、こんなものが……)
木札の裏側には、この異世界には絶対に存在するはずのない、無機質な銀色のシールがしっかりと貼り付けられていたのだ。
規則的なバーコードと、見慣れた会社のロゴマーク。
それは間違いなく、『異世界人材バンク・管理符』だった。
視界の端で、ギルベルトの眉がごくわずかに動いた。
だが彼はすぐにいつもの無表情へ戻り、何も見なかったかのようにヴィルヘルムへ一礼した。
背筋に氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
現地の権力者であるグランツ宰相の暗殺道具に、なぜ現代の派遣会社の備品管理シールが貼られているのか。
点と点が、最悪の形で線に繋がっていく。
運営会社は、ただ受動的にこの世界のシミュレーションを行っているわけではない。
現地住民である宰相と裏で契約し、台本にないはずの暗殺や悲劇を、意図的に『発注』して作り出しているのだ。




