第10話 王太子の破滅予定日は、断罪式の翌日です
静寂に包まれた王宮の控え室。
長椅子に腰掛ける私の足元に、王太子ヴィルヘルムが片膝をついていた。
狩猟祭での暗殺未遂事件の直後。
厳重な警備のもとで王宮へ帰還した私たちは、安全が確認されたこの部屋で、ようやく息をつくことができた。
丸太の裏に飛び込んだ際、私はあちこちを擦りむいてしまっていたらしい。ヴィルヘルムは医務官を呼ぼうとした私を制し、「私のために負った傷だ。私が手当てする」と、自ら救急箱を開いたのだ。
彼は清潔な布を冷水で濡らすと、私の顔を見上げた。
「傷に触れてもいいか」
「……お願いします」
「少し、染みるかもしれない。我慢してくれ」
許可を確かめてから、彼は私のふくらはぎや腕にできた擦り傷の泥を、驚くほど優しい手つきで拭い去っていく。
「殿下、わたくしは平気ですわ。このようなかすり傷、大したことはありませんのに」
「そういうわけにはいかない。君は私を庇って泥を被ってくれた。……痛くないか?」
私の顔色を窺いながら、彼が傷口に軟膏を塗る。
冷徹な王太子役からは想像もつかないほど、その指先は温かく、慎重だった。
顔が近い。ふわりと香る白檀の香りと、彼の真剣な青い瞳に見つめられ、私の心臓は傷の痛みとは違う理由でトクトクと早く脈打っていた。
「……ありがとうございます。痛みは、もうありませんわ」
私が小さく答えると、ヴィルヘルムは安堵したように息を吐き、手際よく純白の包帯を巻いてくれた。
彼の存在が、今ここにいる私を確かに守ってくれている。
その安心感に浸りながらも、私の頭の片隅では、冷ややかな危機感が警鐘を鳴らし続けていた。
(暗殺者の持ち物にあった、グランツ宰相府の印と、会社の人材バンク管理符……)
あの二つが結びつく意味。
それは、運営会社が現地住民である宰相の陰謀に加担し、シナリオ外の「本物の死」を意図的に引き起こそうとしているということだ。
ヴィルヘルムが手当ての道具を片付けている隙に、私は空中に半透明の業務端末を呼び出した。
これまでは与えられたマニュアルと指示しか見てこなかったが、もはやそんな悠長なことは言っていられない。
私は端末のシステム設定を開き、『重大な安全事故(暗殺襲撃)の発生に伴う、リスク評価データの開示請求』を本社のサーバーへ送信した。
現代の神田のオフィスで、システム障害や労災隠しを調査する際に使っていた、正当な権限拡張の申請フォーマットの応用だ。理由が明確であれば、AIの自動審査は高い確率で通過する。
数秒後。
《承認:緊急開示レベル3。シナリオ終了報告(予定)の閲覧を許可します》
《共有表示:重大安全事故の当事者へ開示》
端末の画面が切り替わり、ロックされていた深い階層のファイルが開いた。
そこには、私の派遣期間である三十日間が経過した後――つまり、あの『婚約破棄の断罪式』を終えた直後の、各キャラクターの最終ステータス予定が記載されていた。
私は息を詰め、その文字列を目で追った。
【シナリオ終了時・ステータス予定】
・対象A:男爵家没落に伴い修道院へ幽閉。一年以内に心労により病死予定。
・役体:強制回収後、精神崩壊を理由に長期療養として処理(実質廃棄)。
「……っ」
喉の奥で、ヒュッと息が鳴った。
リリーナが一年以内に病死? 可哀想なヒロインとしてさんざん消費された挙句、用済みとして処理されるということか。
そして、私を断罪するはずのメインヒーロー、ヴィルヘルムの項目。
・対象B:断罪式の翌日、グランツ宰相の告発により王家転覆の反逆罪を問われ、王都広場にて処刑予定。
「しょ、けい……?」
声が震えた。
断罪式の翌日に、殺される?
ハッピーエンドでも、ヒロインと結ばれるわけでもない。
宰相の発注したシナリオの真の目的は、王太子の失脚と死だったのだ。会社はそれを承知の上で、最も感情が大きく動く『悲劇の結末』として、この悪趣味なルートを販売したのだ。
三人とも、三十日後にはそれぞれの形で破滅する予定に組み込まれている。
全身の血の気が引き、指先が氷のように冷たくなっていくのを感じた。
「ヨリエル?」
不意に、すぐ真横から声がした。
ハッとして顔を上げると、道具を片付け終えたヴィルヘルムが、私の異変に気づいて身を乗り出していた。
「どうした、ひどく顔色が悪いぞ。傷が痛むの――」
ヴィルヘルムの言葉が、途中でピタリと止まった。
彼の視線が、私の顔を通り越し、虚空に向けられている。
まさか。私は慌てて業務端末の画面を消そうとしたが、彼の視線の固定が、それよりも一瞬早かった。
通常、半透明のパネルは派遣スタッフにしか見えない。
だが、緊急開示レベル3では、安全事故の当事者にも必要な情報が共有される。申請を急ぐあまり、私はその一文を見落としていたのだ。
ヴィルヘルムの青い瞳が、信じられないものを見るように見開かれていた。
そこには、先ほど私が読んだばかりの文字列が、無機質な光を放って浮かび上がっている。
『対象B:断罪式の翌日……反逆罪を問われ、王都広場にて処刑予定』
「……殿下、これは……!」
私が弁明しようと口を開くよりも早く。
ヴィルヘルムは、虚空に浮かぶ自身の『死亡日』の宣告からゆっくりと目を離し、私を真っ直ぐに見下ろした。
「……ヨリエル。君は、何を見ているんだ?」
その声は怒りではなく、深い底知れぬ混乱と、静かな問いかけに満ちていた。
序盤のゲームのような謎解きは、完全に終わった。
ここから先は、彼らの命を救うための、本当の戦いが始まるのだ。




