第8話 台本どおりに階段から落とす気はありません
【次回業務指示の更新】
・目標:王宮の大階段において、リリーナを突き飛ばすこと。
・達成条件:リリーナが階段から転落し、骨折などの重傷を負うこと。
空中に浮かぶその無機質な文字列を前に、私は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
休憩室の向かいに座るリリーナも、私の端末の画面は見えないものの、私の顔色から事の重大さを察したようだ。
「ヨリエル様……次の指示、ですか?」
「ええ。大階段からあなたを突き飛ばして、骨折させろって」
私の直截な言葉に、リリーナは一瞬だけ息を呑んだ。
しかし、彼女はすぐにスッと背筋を伸ばし、冷静な瞳で私を見据えた。
「わかりました。いつ、どの階段で決行しますか?」
「ちょっと待って。あなた、本気で骨折する気?」
「いいえ。ですが、やらなければヨリエル様が契約違反に問われるのでしょう? なら、骨折『したように見せる』しかありません」
彼女の肝の据わりっぷりに、私は少しだけ圧倒された。
可哀想なヒロインは、自分の身を守るための最適解を瞬時に導き出している。
なら、悪役令嬢である私が弱音を吐いている場合ではない。神田のオフィスで培った『安全第一の段取り力』を見せてやる。
「決行は明日の午後、中央ホールの東側階段。あそこなら、午後には西日が差し込んで影ができる。死角を作りやすいわ」
私は隠し持っていたメモ帳に、階段の図面をササッと書き込んだ。
「リリーナさんは、階段の五段目まで登ったところで私に肩を掴まれる。そこから私が手を振り払うと同時に、あなた自身で思い切り後ろへ飛んでちょうだい。受け身は取れる?」
「はい。弟たちと取っ組み合いの喧嘩をして育ちましたから、転び方には自信があります」
「頼もしいわね。下には、ふかふかのクッションを敷き詰めておくわ。掃除係を買収して、見えないようにカモフラージュさせるから」
私たちは綿密な打ち合わせを行い、翌日の決行に備えた。
そして翌日の午後。
王宮の中央ホールは、文官やメイドたちが行き交い、適度な人目があった。
私は予定通り、階段を登ろうとしていたリリーナの背後に回り、その肩を乱暴に掴んだ。
「身の程知らずのネズミが。王宮をうろつくのはやめろと言ったはずですわ!」
声を張り上げ、腕を大きく振りかぶる。
私の手が彼女の肩から離れた瞬間、リリーナは自ら見事な跳躍を見せた。
「ああっ!」
悲鳴とともに、彼女の小さな身体が階段を転がり落ちていく。
周囲から「きゃあああっ!」という本気の悲鳴が上がった。
リリーナは四段下まで転がり、踊り場に崩れ落ちた。その下には、私が掃除係に頼んで敷かせておいた分厚い絨毯とクッションの束が隠されている。
「リリーナさん!」
「誰か、早く医務室へ!」
騒然となるホール。
倒れたリリーナは、苦痛に顔を歪め、自分の右腕を押さえてピクリとも動かない。
完璧だ。あれなら誰が見ても「悪役令嬢がヒロインを階段から突き落とし、大怪我をさせた」としか思えない。
私は扇で口元を隠し、「自業自得ですわ」と冷たく言い捨てて、その場を立ち去った。
人目のない回廊の奥まで進み、私はホッと息を吐いた。
よし、誰も怪我をしていない。シーンは無事に成立したはずだ。
私は日課となっている業務報告書を作成するため、端末を操作した。
【本日の業務報告】
・目標:大階段での転落シーン(完了)
・達成状況:対象は転落し、腕を押さえていたため骨折の疑いあり。
・所感:階段は危険なため、今後は安全配慮の見直しを要求する。
送信ボタンを押した、その直後だった。
ビーッ、ビーッ、と業務端末が低く不快な警告音を鳴らした。
画面が赤く染まり、『本社・物語運営部より通信』という文字が浮かび上がる。
『――日下部依子さん。お疲れ様です。物語運営部長の星名です』
端末のスピーカーから、ノイズ混じりの、ひどく冷静で事務的な女性の声が響いた。
秋葉原の地下で一度だけ姿を見たことのある、幹部の女性だ。
「……お疲れ様です。報告書の件でしょうか」
『ええ。先ほどの大階段のシーンですが、達成率が規定を下回っています。対象の身体スキャンを行いましたが、骨折どころか打撲ひとつ確認できませんでした』
背筋に冷たい汗が伝う。
ごまかしは通用しなかった。彼らはこの世界の住民の身体状態まで、システムで監視しているのだ。
『あなたは対象と結託し、クッションなどの代替物を用いて実害を回避しましたね。これは物語の感情変動値を著しく下げる行為です。当部門の損益に関わるため、本件は大幅な減点とさせていただきます』
「……減点ですか。ですが、労災や怪我のリスクを避けるのは、働く上での基本ルールのはずです。高精度シミュレーションだというなら、わざわざ本物の痛みを与える必要はないのでは?」
私は食い下がった。
相手をNPCだと思わせたいのなら、怪我の有無にこだわるのは不自然だ。
『彼らは現地資産です。資産をどう消費して収益を上げるかは、運営側の裁量ですよ。あなたたち交換可能スタッフは、ただ指示通りに動いていただければいいのです』
星名の声には、悪意すらなかった。
ただ純粋に、効率と数字だけを重んじる冷徹さ。それが逆に、私の背筋を凍らせた。
この会社は、本物の人間を「消費可能なデータ」として扱っている。
「……そんな非人道的な指示には、これ以上従えません。減点でも何でもしてください。最悪、この場で辞職します」
私は強い口調で言い放った。
私には現代での本業がある。生活防衛のための副業とはいえ、人殺しや傷害の片棒を担がされるくらいなら、アパートを追い出された方がマシだ。
しかし、星名からの返答は、私の退路を完全に塞ぐものだった。
『辞職は自由です。引き留めはしません』
淡々とした声が、耳元に突き刺さる。
『ただし、あなたがリタイアした場合、あなたの役体には即座に『強制執行役』のスタッフがダウンロードされます。彼女たちは実害を出すことに一切の躊躇がありません。明日の朝には、男爵令嬢は本物の重傷を負うことになるでしょう』
「なっ……!」
私は息を呑み、言葉を失った。
私がここで逃げれば、別の誰かがヨリエルの身体を使い、リリーナを確実に傷つける。
いや、リリーナだけではない。ヴィルヘルムの破滅という結末も、決定事項として進められてしまう。
『合理的な判断を期待します。では、引き続き業務に励んでください』
通信が一方的に切れ、回廊には重い静寂だけが残された。
握りしめた手が、微かに震えている。
辞めるわけにはいかない。
私がこの悪役令嬢のポジションを死守しなければ、彼らの命が危ないのだ。




