第7話 悪役令嬢とヒロインは、休憩室で同盟を結ぶ
昨夜、私の業務端末に表示された青い光。
『予測不能:王太子ヴィルヘルムの言動が既定ルートを逸脱』
そのシステムメッセージが意味するものを考えると、今朝からずっと胃のあたりがキリキリと痛んでいた。
端末が算出した好感度の数値ではなく、彼自身の言葉と行動として表れた関心。
少なくともそれは、私がただのNPCではない「彼」を気遣い、定時で休ませようとしたことへの反応だった。
嬉しいとか、胸がときめくとか、そんな呑気なことを言っている場合ではない。相手は一国の王太子であり、私は彼を破滅に導くルートの悪役なのだ。
「……はぁ。考えても仕方ない。今は目の前の仕事をこなさないと」
私は王宮文書院の廊下で短く息を吐き、気合を入れて表情筋を「悪役」の形に固定した。
向こうから、分厚い資料の束を抱えたヒロイン、男爵令嬢リリーナが歩いてくる。
周囲には、立ち話をしている文官やメイドたちの姿がちらほらとある。観客としては十分だ。
私はツカツカと歩み寄り、彼女の目の前で立ち止まると、冷ややかな声で言い放った。
「あら、リリーナさん。今日も埃っぽい本に囲まれて、平民上がりのあなたにはお似合いの職場ですこと」
「っ……ヨ、ヨリエル様……」
私の嫌味に、リリーナはビクッと肩を跳ねさせた。
彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。周囲の役人たちが「またあの悪女が」「可哀想に……」とヒソヒソと囁き始めた。
「その見苦しい涙、本当に不愉快ですわ。わたくしの視界に入らないでちょうだい」
「ひっ……申し訳、ありません……っ」
完璧なやり取りだ。
私は冷たく鼻を鳴らし、扇で顔を隠しながら踵を返した。
そして、そのまま人目のない廊下の奥へと進み、普段は使われていない古い休憩室の扉を押し開けた。
数秒後。
背後で扉がバタンと閉まると同時に、私の背中を追ってきたリリーナが休憩室に入ってきた。
「……よし、誰もいませんね」
リリーナの声から、先ほどまでの震えるような怯えが完全に消え去っていた。
彼女は抱えていた資料をテーブルにドンッと置き、懐から取り出したハンカチで、濡れた頬を乱暴に、しかし手際よく拭き取った。
「お疲れ様、リリーナさん。今の角度、完璧だったわよ」
「ありがとうございます。ヨリエル様の『不愉快ですわ』の冷たいトーンも、背筋が凍るほど素晴らしかったです」
私たちは互いの演技を労い合い、休憩室の古びたソファに向かい合って腰を下ろした。
これが、私たちの新しい日常だ。
表向きは加害者と被害者。しかし裏では、この理不尽な状況を生き抜くための協力者である。
「それにしても、あのグランツ宰相……本当に腹立たしいです」
リリーナがハンカチを握りしめ、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
昨日、彼女から事情を聞き出した私は、なぜ彼女が「ヒロイン役」という台本に縛られているのか、その背景を知った。
彼女の実家であるベルティエ男爵家は、不作と事業の失敗で首の回らないほどの借金を抱えていた。
その債権をすべて買い取ったのが、あの夜会で襲撃者を差し向けた黒幕、グランツ宰相だったのだ。
宰相はリリーナに対し、「王太子の気を引き、彼が婚約者であるヨリエルを捨てて君を選ぶように仕向けろ」と脅迫しているらしい。さもなくば、家族は路頭に迷うと。
「宰相は、ヴィルヘルム殿下が『身分違いの恋』にうつつを抜かし、公的な婚約を破棄するスキャンダルを狙っているのよ。そうすれば、殿下の求心力は地に落ちるから」
「私とヨリエル様は、殿下を失脚させるための盤上の駒、というわけですね」
リリーナの瞳は、ヒロイン特有の庇護欲をそそるものではなく、現実の不条理を冷静に見据える知的な光を宿していた。
彼女は自分の置かれた状況を正確に理解し、それでも家族を守るために、必死で涙を流す演技を続けているのだ。
「私、ヨリエル様に感謝しているんです」
ふと、リリーナが真剣な顔で私を見た。
「最初は、本当に底意地の悪い貴族だと思っていました。でも、あなたは私の実害になるようなことは絶対にしない。ワインの時も、私を庇ってくれました。……それに、私の見る『夢』の話を、狂人の戯言だと笑わずに信じてくれた」
「私も、あなたと情報を共有できなければ、とっくにあの暗殺者に殺されていたかもしれないわ」
私は業務端末の画面を隠しながら、彼女に微笑みかけた。
私が会社から受け取る「業務指示」と、リリーナが眠るたびに見る「夢」。
この二つを照らし合わせることで、私たちは次に起こるイベントを事前に把握し、対策を練ることができる。
「でも、無理はしないで。本当はあんな風に、大勢の前で泣かされるなんて嫌でしょう?」
「いいえ」
私の気遣いを、リリーナは即座に、きっぱりと否定した。
「私、自分の涙がどう見られるか、よく知っています。か弱く見せるために、泣く角度も選べます」
彼女はハンカチを膝の上に置き、背筋をピンと伸ばした。
「でも、泣く理由は私が決めます。宰相の脅しや、よくわからない夢の強制力に屈して泣くのではありません。家族を守るため、そしてこの理不尽な状況をひっくり返すために、私は私の意思で、あのヒロイン役を演じているんです」
その力強い宣言に、私は思わず息を呑んだ。
彼女はただの被害者ではない。自分の役割を逆手に取り、戦おうとしているのだ。
(すごい子。……私なんて、ただ時給とアパートの更新料のために演じてるだけなのに)
自分の器の小ささに少し恥じ入りながらも、私は立ち上がり、彼女に向かって右手を差し出した。
「なら、私たちの目的は一つね。表では敵同士を演じ抜く。でも裏では、絶対に誰も傷つかないように段取りを組む。……同盟、結んでくれる?」
「はい、喜んで」
リリーナは私の手をしっかりと握り返した。
悪役令嬢とヒロイン。絶対に交わるはずのなかった二人が、休憩室の片隅で確かなシスターフッド(連帯)を結んだ瞬間だった。
よし、これならいける。
彼女の知性と私の事務処理能力(リスク管理)があれば、どんな理不尽な指示が来ても、上手くすり抜けて定時退社できるはずだ。
そう確信し、私が明るい気持ちで業務端末を開いた、その時だった。
【次回業務指示の更新】
・目標:王宮の大階段において、リリーナを突き飛ばすこと。
・達成条件:リリーナが階段から転落し、骨折などの重傷を負うこと。
画面に点滅するその文字列を見た瞬間、私の全身からサァッと血の気が引いた。
「ヨリエル様? どうされましたか、急に顔色が……」
「……冗談じゃないわよ」
声が震えた。
精神的な嫌がらせや、ドレスを汚すようなチャチなものではない。
これは明確な『傷害事件』の強要だ。
人を役割として消費し、平気で実害を求める会社の悪意が、ついに牙を剥いたのだ。




