第6話 王太子殿下、定時を守る気はありますか
『ヴィルヘルム殿下が、血の海の中で膝をついていて……』
昨夜、リリーナが震える声で語った夢の内容が、私の頭の中で警鐘のように鳴り響いていた。
もし王太子が死ねば、私の副業はどうなるのか。強制終了による解雇か、それとも未達による違約金か。いや、それ以前に、あの不器用なほど真面目に他人の時間を守る男が理不尽に殺されるなんて、絶対に見過ごせるはずがなかった。
翌日の出勤。転送された役体のドレスを整え、王宮の回廊を歩いていた私は、執務室の前に立ち尽くすメイドや従僕たちのただならぬ空気に気づいて足を止めた。
彼らの手には、すっかり冷めきった昼食の銀盆が乗せられている。
「またお手をつけられなかったの?」
「ええ。昨夜から一睡もされておられないのに……。このままではお倒れになってしまう」
潜めた声に耳を傾け、私は眉をひそめた。
国王が病に倒れて以来、摂政として国政のすべてを担うヴィルヘルムの負担は計り知れない。さらに昨夜の夜会で起きたワイン差し替え事件は、宰相府の暗躍を決定づける出来事だった。彼は今、誰を信じていいのかすら分からない猛烈なプレッシャーの中で、一人で防波堤になろうとしているのだ。
「……食事を抜いて働き続けるなんて、労働基準法違反のブラック企業そのものじゃない」
私はボソリと呟いた。
派遣事務として数々の過酷な現場を見てきた私の経験上、過労と睡眠不足は確実に行動のパフォーマンスを低下させ、致命的なミスを引き起こす。彼が倒れれば、国も、そしてリリーナが見たという最悪の未来も一気に現実味を帯びてしまう。
私は歩み寄り、従僕の手から手軽に食べられそうなサンドイッチとスープの乗った盆をひったくった。
「ヨ、ヨリエル様!?」
「わたくしがお持ちしますわ。あなたたちは下がっていなさい」
悪役令嬢としての高慢な笑みを貼り付け、近衛兵が止める間もなく執務室の重厚な扉を開け放つ。
部屋の中は、息が詰まるほどの書類とインクの匂いが充満していた。
壁一面の書棚に囲まれた巨大なマホガニーのデスク。その奥で、ヴィルヘルムが山積みの決裁書類にペンを走らせていた。
青い瞳の下には薄く隈が浮かび、いつもは完璧に整えられている金糸の髪も、無造作にかき上げられた跡があった。
「……今は誰も通すなと言ったはずだが」
顔も上げずに放たれた冷たく低い声。その声に滲む深い疲労に、私はあえてヒールの音を高く鳴らして歩み寄った。
「お断りしますわ。殿下、休憩のお時間です」
私がデスクの空きスペースに銀盆をドンッと置くと、ヴィルヘルムは弾かれたように顔を上げた。
「ヨリエル。君か……。悪いが、食事を摂る時間はない。後にしてくれ」
「駄目です。これ以上食事も睡眠も取らずに倒れられでもしたら、わたくしの予定が狂ってしまいますの。これは悪役令嬢であるわたくしからの、嫌がらせですわ」
「嫌がらせ?」
「ええ。さあ、手を止めて召し上がって。あなたが残さず食べるまで、わたくしはここから一歩も動きませんから」
腰に手を当て、業務命令めいた口調で見下ろす私を、ヴィルヘルムは呆然と見上げた。
国の最高権力者である王太子に対し、ただの令嬢がこんな口を利くなど不敬罪もいいところだ。
しかし、彼は怒るでもなく、私と、机に置かれたサンドイッチを交互に見つめ――やがて、フッと肩の力を抜いた。
「くっ……ふ、ははっ……」
最初は堪えるような声だったが、それはすぐに抑えきれない笑い声に変わった。
ヴィルヘルムが、初めて私の前で声を立てて笑ったのだ。
冷酷で完璧な王太子という仮面が外れ、年相応の青年の素顔が見えた瞬間だった。
「……殿下?」
「すまない。あまりにも堂々とした『嫌がらせ』の宣言に、ついな。君は本当に……妙な令嬢だ」
目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、ヴィルヘルムは諦めたようにペンを置いた。
そしてサンドイッチを手に取ると、ゆっくりと口に運んだ。
彼が食事を喉に通すのを確認し、私はホッと胸を撫で下ろしてソファに腰を下ろした。
「……父上が倒れてから、私は少しでも隙を見せれば国が崩れると教えられてきた」
温かいスープを飲みながら、ヴィルヘルムがポツリとこぼした。
それは、彼が初めて他人に打ち明けた『弱さ』だった。
「宰相府は私の失脚を狙っている。だから、私は完璧な王太子でいなければならない。疲労も、空腹も、誰かに助けを求めることも、許されないと」
「殿下は人間ですわ。魔力で動く機械人形ではありません」
私はマニュアルの台詞を無視して、自分の言葉で返した。
「完璧な人間などいません。食事を抜けば頭は回らなくなりますし、一人で抱え込めば必ずどこかで破綻します。休むことは、次の仕事に向けた立派な業務の一環ですわ」
「業務の一環、か。君の言葉は時々、妙に現実的で厳しいな。だが……不思議と腑に落ちる」
ヴィルヘルムは微かに口角を上げ、残りの食事を平らげた。
少しだけ顔色に血の気が戻った彼を見て、私も自然と笑みをこぼした。
その時、私の視界の端に浮かぶ業務端末の時計が、現在時刻を告げた。
現地時間の夜。現代側での私の退勤時刻である、二十二時まであと少しだ。
私がハッとして時計を気にしていることに気づいたのか、ヴィルヘルムは立ち上がり、執務机に置かれていた呼び鈴を鳴らした。
すぐに入室してきた側近の騎士に向かって、彼は短く命じる。
「今夜予定されていた各省庁との調整会議は、明日の午後に回せ。急ぎの決裁はすでに終わっている。今夜はこれ以上、誰も執務室に入れるな」
「で、殿下!? しかし、それでは……」
「私からの命令だ。以上」
側近を下がらせた後、ヴィルヘルムは私に向き直った。
いつもは冷たい印象を与える青い瞳が、今は驚くほど穏やかで、柔らかな光を帯びている。
「君のおかげで目が覚めた。今日はもう休むことにする」
「……よろしいのですか? 会議を飛ばしてしまって」
「ああ。君にだけブラック企業……だったか? そんなふうに思われるのは癪だからな」
彼は私の呟きをしっかり聞いていたらしい。
少し悪戯っぽく笑った後、ヴィルヘルムは真剣な声で私の目を見つめた。
「君の定時は守る。だから、明日も来てほしい」
その誠実な言葉の響きに、私の胸の奥がキュッと音を立てて締め付けられた。
それは、上司に対する尊敬なのか、それとも別の感情なのか、自分でもうまく言語化できない。
ただ、彼の力になりたいと、本気で思ってしまった。
(はい。明日も、必ず)
私が心の中でそう答えた直後、視界の端で業務端末が点滅した。
いつもの赤い警告表示ではない。静かな青い光だった。
《予測不能:王太子ヴィルヘルムの言動が既定ルートを逸脱》
《対人評価モデルでは算出できません》
端末が彼の心を読めるわけではない。
それでも、私の時間を守ろうとした言葉と行動だけは、台本にない彼自身の選択だった。
その意味を理解する前に、私は強制ログアウトの白い光に包まれ、異世界の夜から現代へと引き戻されていった。




