第5話 ヒロインは昨夜、この場面を夢で見た
「ヨリエル様。……今、よろしいでしょうか」
夜会が中止となり、人目を避けて避難した王宮の控え室。
重い木扉の隙間から、ひどく怯えたような、けれど必死に何かを堪えるような声が聞こえた。
顔を覗かせたのは、先ほど大広間で危険物の標的にされかけた男爵令嬢、リリーナだった。
「リリーナさん……。あなたこそ、怪我はなかったの?」
私は驚いて立ち上がり、彼女を部屋の中へ招き入れた。
物語のヒロインが、自分をいじめるはずの悪役令嬢の控え室に単身で乗り込んでくるなど、台本には一切書かれていない異常事態だ。
「はい。殿下と、ヨリエル様のおかげで……。本当に、ありがとうございました」
リリーナは深く頭を下げた。
しかし、顔を上げた彼女の顔色は、大理石のように蒼白だった。
ただ恐怖に怯えているだけではない。大きな瞳には、得体の知れない現象に対する混乱が渦巻いている。
「あの……私、知っていたんです」
震える両手を強く握り締め、リリーナが絞り出すように言った。
「あの場所で、ヨリエル様が私に何をするつもりだったか。……昨夜、夢で見たんです」
「夢で……?」
「はい。夢の中のヨリエル様は、私のドレスの裾に赤いワインを少しだけこぼして、こう言いました。『あら、手が滑りましてよ』って」
ドクン、と私の心臓が大きく跳ねた。
彼女が口にしたその台詞は、私がさっき大広間でまさに言おうとしていた、会社支給のマニュアル通りの台詞だった。
偶然の一致であるはずがない。
リリーナは、運営会社が私に割り当てた『悪役令嬢の台本』の内容を、前もって夢として見せられていたのだ。
主役級の中心人物である彼女には、次のシーンの情報が『夢』という形で漏れ出ているらしい。
「私、あの広間の隅に立っていたくなかったんです。なんだか嫌な予感がして、逃げたかった」
リリーナの声が震え始める。
「でも、どうしてか……あそこに立っていなければいけないって、強い思い込みみたいなものが頭を支配して、足が動かなくなったんです。まるで、誰かに『可哀想なヒロイン』の役を押し付けられているみたいに」
それが、この世界の住人に貼られた『役割契約』の力なのだろう。
行動を誘導し、状況を寄せる。完全な洗脳ではないからこそ、彼女には「逃げたい」という本人の自由意思と、「役割に従わなければ」という強制力との間で、激しい摩擦が起きている。
「私、そんな役割なんて嫌です! 殿下に選ばれることなんて望んで――っ!」
リリーナが声を張り上げ、台本に逆らうような言葉を口にした瞬間だった。
「ぁ……う、ああっ!」
突如、彼女は頭を抱え込み、床にうずくまった。
呼吸が乱れ、顔を苦痛に歪ませている。
「リリーナさん!?」
私は慌てて駆け寄り、床に倒れ込みそうになった彼女の細い肩を抱き留めた。
これが、マニュアルの奥底に書かれていた『修正圧』というやつか。役割に意図的に逆らおうとすると、ペナルティとして頭痛や身体硬直が引き起こされるのだ。
「ヨリエル、さま……頭が、割れそうに……っ」
「無理に話さなくていいわ。ゆっくり深呼吸して」
私は背中をさすりながら、彼女を情報装置やゲームのNPCとしてではなく、ひとりの『労災被害者』として直視した。
理不尽な労働環境で、やりたくもない役を強要され、心身を壊されかけている女の子だ。
私はドレスの隠しポケットから、現代の職場でも愛用している小さなメモ帳とペン(異世界風の意匠の特注品だ)を取り出した。
記憶力には自信があるが、証拠は物理的な記録として残すのが事務員の鉄則である。
「痛みの種類はどう? ズキズキする? それとも締め付けられるような感じ?」
「……鈍い、重たい痛み、です……奥の方から、締め付けられるような……」
「発生時刻、症状の重さ、トリガーとなった発言を記録するわ。視界はぼやける? 吐き気は?」
「吐き気は、少し……」
「わかった。安静にして」
淡々と、しかし確実に事実を記録していく私の態度に、リリーナは少し驚いたように目を見開いた。
悪役令嬢が自分を心配し、手厚く看病しているという状況が信じられないのだろう。
「どうして、そこまで……。私は、あなたにとって邪魔な存在のはずじゃ……」
「邪魔なんかじゃないわ。あなたは、危険な職場で無理やり働かされている被害者よ」
私はメモ帳を閉じ、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「大丈夫。痛い時は痛いと言っていい。泣きたい時は泣いていいわ。でも、誰かに『可哀想なヒロイン』だと思われるために泣く必要はないのよ」
私の言葉に、リリーナの瞳からポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、台本に指定された同情を誘うための演技の涙ではない。
不安と恐怖、そして誰かに理解された安堵がないまぜになった、彼女自身の本当の涙だった。
しばらくして、頭痛の波が引いたのか、リリーナの呼吸が落ち着きを取り戻した。
彼女は私の腕の中で身を起こし、まだ涙で濡れたまつ毛を震わせながら、青ざめた唇を開いた。
「ヨリエル様……。私が見た夢は、ワインの場面だけじゃないんです」
その声音に混じる深刻な響きに、私は息を呑んだ。
ヒロインの夢漏れが、直近の出来事だけにとどまらないというのか。
「次の場面の夢……。見知らぬ場所で、殿下が……ヴィルヘルム殿下が、血の海の中で膝をついていて……」
リリーナの言葉が、控え室の冷たい空気に溶け込んだ。
王太子ヴィルヘルムが、血を流して倒れる未来。
私は思わず、記録用のペンを強く握り締めた。




