第4話 ワインをかける前に、床の安全確認をします
王宮のシャンデリアが眩い光を放つ大広間。
今夜は他国の使節を招いた大規模な夜会が開かれていた。
きらびやかなドレスや軍服が行き交い、優雅なオーケストラの生演奏が壁に反響している。
壁際の大理石の柱の陰で、私は小さく息を吐き、頭の中で本日の『業務進行表』をチェックしていた。
【本日の業務指示:夜会の場で、ヒロインのドレスにワインを浴びせ、公衆の面前で恥をかかせること】
悪役令嬢モノにおける、あまりにもベタな王道イベントである。
しかし、神田の事務用品卸会社で数々のクレーム処理と労災防止ポスターの作成を担ってきた派遣社員の目から見れば、この指示はツッコミどころが多すぎる。
まず、大理石の床に液体を撒き散らせば、ヒロインだけでなく周囲の招待客まで転倒する恐れがある。完全な安全配慮義務違反だ。
さらに、ドレスに赤ワインのシミをつければ、後日クリーニング代の請求や賠償問題に発展しかねない。リリーナの実家である男爵家は貧しい設定なのだ。彼女に金銭的な実害を与えるのは、私の良心が咎める。
だから私は、事前に完璧な『段取り』を組んでいた。
第一に、決行場所は大広間の隅、転倒リスクの低い分厚いペルシャ絨毯が敷かれたエリアに限定する。
第二に、私が手にする杯の中身は、ワインではなく『水溶性の特注ブドウ果汁』に差し替えておくよう、懇意になった厨房のメイドに手を回してある。これなら濡れタオルで叩けばすぐに落ちる。
第三に、液体はリリーナの顔や胸元ではなく、ドレスの裾の最も目立たない部分に『偶然を装って』少しだけこぼす。
完璧なリスク管理だ。これでシーン成立手当をもらいつつ、誰の実害も出さずに定時退社できる。
私は扇で口元を隠し、ターゲットの動向を探った。
リリーナは広間の隅で、少し所在なさげに立っていた。身分が低いため、周囲の貴族たちから遠巻きにされているらしい。
よし、今だ。
私は背筋を伸ばし、悪役令嬢ヨリエルの傲慢な笑みを顔に貼り付けて歩み出た。
「ごきげんよう、男爵令嬢。随分と……壁の装飾に馴染む、控えめなドレスですこと」
私が声をかけると、リリーナはビクッと肩を跳ねさせ、大きな瞳を揺らした。
「ヨリエル様……。そ、その、申し訳ありません」
怯えたような彼女の反応を見て、周囲の貴族たちがヒソヒソとささやき始める。
いいぞ、予定通りヘイト(悪印象)が集まっている。
私はタイミングを見計らい、通りかかった従僕の銀盆から、あらかじめ手配しておいた銀の杯を取り上げた。
さあ、あとはこのブドウ果汁を、彼女のドレスの裾に少しだけ引っ掛けるだけだ。
私は「あら、手が滑りましてよ」という台詞を口にしかけ――寸前で、ピタリと動きを止めた。
(……待って。何、この匂い?)
鼻腔を突いたのは、芳醇なブドウの香りではない。
ツンとした、粘膜を焼くような化学的な異臭。
前職で工場の薬品庫を点検した時に嗅いだことのある、工業用クリーナーや、強い酸性の薬品に極めて近い匂いだった。
(これ、私が用意した果汁じゃない! 本物の危険物だ!)
ぞわり、と全身の毛穴が開くような悪寒が走った。
誰かが杯をすり替えたのだ。これをもし、リリーナに浴びせてしまったら。ただの嫌がらせでは済まない。彼女の肌を焼き、取り返しのつかない火傷を負わせてしまう。
「……っ!」
私が反射的に杯を遠ざけようとした、その瞬間だった。
目の前にいた従僕が、不自然に足を滑らせるふりをして、私の肘にドンッと強く体当たりをしてきた。
「きゃっ!?」
バランスを崩す。
手からすっぽ抜けた銀の杯が宙を舞い、なみなみと注がれた異臭を放つ液体が、私とリリーナの中間地点に弧を描いてぶち撒けられそうになる。
(ダメ、避けられない――!)
ギュッと目を閉じた直後。
私の右手首を、万力のような強い力がガシッと掴んだ。
「――っ!」
そのまま強い力で背後へと引っ張られ、私の身体は誰かの硬い胸板にドンッとぶつかった。軍服の金ボタンの感触と、微かな白檀の香りが鼻をかすめる。
直後、ジュゥゥゥッ!という不気味な音が足元で響いた。
目を開けると、私がつい数秒前まで立っていた場所のペルシャ絨毯が、無惨に黒く焼け焦げ、嫌な白煙を上げている。
周囲の貴族たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように後退った。
「怪我はないか、ヨリエル」
頭上から降ってきたのは、氷のように冷たく、けれど確かな熱を帯びた低い声だった。
見上げると、王太子ヴィルヘルムが、私の手首を庇うように引き寄せたまま、鋭い眼光で前方を見据えていた。
「で、殿下……。わたくしは、無事です……」
「そうか。ならいい」
ヴィルヘルムは私の安全を声と視線で素早く確認すると、手首をそっと解放した。
無骨で大きな手の温もりが離れ、急に心細くなる自分に驚く。私は悪役令嬢で、彼は私を断罪するはずのメインヒーローなのに。
ヴィルヘルムの視線はすでに、私に体当たりをした従僕へと向けられていた。
男は舌打ちをし、人混みに紛れて逃げようとしていた。
「逃がすな。捕らえろ」
ヴィルヘルムが短く、しかし広間中に響き渡る声で命じた。
次の瞬間、壁際で待機していた王宮近衛兵たちが一斉に動き、逃げようとした従僕を床にねじ伏せた。
「離せ! 俺はただぶつかっただけで――」
「黙れ。貴様のその右手の火傷の痕、薬品を移し替えた際のものだな。手荷物と身体を改めろ」
ヴィルヘルムの冷徹な指示に、近衛兵が男の懐を探る。
そして、男の衣服の裏地から、カチャリと音を立てて木製の札が転がり落ちた。
大理石の床を滑り、ヴィルヘルムのブーツのつま先で止まったそれを見て、息を呑む音が広間に響いた。
「……グランツ宰相府の、特別通行証」
ヴィルヘルムがその札を拾い上げ、氷点下の声で読み上げる。
グランツ宰相。病床の国王に代わり、現在このアーデルハイト王国の実権を握ろうとしている最大派閥のトップだ。
周囲の貴族たちが一斉に顔色を青ざめさせ、水を打ったように静まり返る。
私は焼け焦げた絨毯を見下ろし、心臓の鼓動が早まるのを感じていた。
会社の台本には、こんな展開は一切書かれていなかった。
誰かが意図的に私の段取りを壊し、リリーナか、あるいは私自身に、取り返しのつかない実害を与えようとしたのだ。
『対象世界は高精度シミュレーションです』
秋葉原の地下で聞いた支店長の言葉が、ひどく空虚な嘘に思えた。
ここはゲームじゃない。
剥き出しの悪意と、血の通った人間が生きている、本物の世界だ。




