第3話 悪役令嬢マニュアルに、恋愛禁止とあります
「恋愛関係は即時回収対象となります、ね……」
自室の豪奢な天蓋ベッドに腰掛け、私は空中に浮かぶ半透明の業務端末を睨みつけていた。
不吉な赤い警告表示はすでに消えているが、心臓はまだ少しドクドクと嫌な音を立てている。
時給三千円の高給副業とはいえ、即時解雇だけは絶対に避けなければならない。
来月のアパート更新料を払えなくなれば、私は文字通り関東平野で路頭に迷うことになる。
気を取り直して、私は端末をスワイプし『悪役令嬢業務マニュアル』の細かい規約ページを開いた。
ターゲットである王太子の好感度上昇というエラーの原因を探るためだ。
画面をスクロールすると、【好感度ゲージに関する注意事項】という項目が見つかった。
『本端末が表示する好感度は、対象の表情筋、脈拍、接触頻度、発話内容などから算出されるAIの予測値にすぎません。対象の内心を完全に読み取るものではないため、参考程度に留めてください』
要するに、ただの推測データだ。
中庭での私の行動が、たまたまヴィルヘルムの「興味を惹く」パターンに合致して数値が跳ね上がっただけで、本気で好意を持たれたわけではないらしい。
ホッと息を吐く一方で、さらに規約を読み進めると、厄介な一文が目に飛び込んできた。
『過度な感情干渉は契約違反となります。現地住民の自由意思を著しく阻害する行為(恋愛関係への発展など)が確認された場合、スタッフは即時回収されます』
「……現地住民、か」
その単語の響きに、わずかな違和感が首をもたげた。
秋葉原の地下で事前研修を受けた際、支店長は確かにこう言っていたはずだ。
『対象世界は高精度シミュレーションです。ゲームのNPCを相手にするようなものなので、気楽にやってください』と。
もし相手がただのプログラムなら、なぜ『自由意思』だの『現地住民』だのという、生々しい言葉が契約書に並んでいるのだろうか。
コンコン、と控えめなノックの音が、私の思考を遮った。
「ヨリエル様。王太子殿下より、温室サロンへのお茶のお誘いがございます」
扉の向こうからのメイドの声に、私は反射的に端末の時計を確認した。
現在の時刻は、現地時間で夕暮れ時。私の現実世界での退勤時間である二十二時まで、あと四十分を切っている。
(このタイミングで呼び出し? 残業代出ないんだけど)
内心で毒づきながらも、ターゲットからの誘いを無視するわけにはいかない。
私は重たいベルベットのドレスの裾を翻し、完璧な悪役令嬢の冷たい作り笑いを顔に貼り付けて部屋を出た。
王宮の奥にある温室サロンは、魔法のランプによって柔らかく照らされていた。
夜の気配が迫る中、色とりどりの薔薇が咲き乱れる空間の中心で、ヴィルヘルムは円卓の席に座っていた。
漆黒の軍服姿の彼は、静かに紅茶のカップを傾けている。
驚いたことに、周囲に護衛や給仕のメイドは一人もいなかった。完全に人払いがされている。
「遅れましたわ、王太子殿下」
私がツカツカと歩み寄り、完璧な角度で淑女の礼をして見せると、彼はカップを置き、手元の懐中時計をパチンと閉じた。
「急な呼び出しですまない。座ってくれ。君の時間は十分だけもらう」
十分。
その具体的な数字の提示に、私はわずかに目を瞬かせた。
「……十分、ですか?」
「ああ。今日、夕刻になってから何度も時計を気にしていただろう。長居させるつもりはない」
ヴィルヘルムは自らの手でポットを持ち上げ、私の前のカップに琥珀色の紅茶を注いだ。
豊かなダージリンに似た香りが、ふわりと立ち上る。
王太子自らに紅茶を注がせるなど不敬にあたるかもしれないが、彼の手つきがあまりにも自然だったため、私は止めるタイミングを失ってしまった。
それにしても、だ。
彼は今日一日、私が「定時退社」を意識してそわそわしていることに気づいていたのだ。
そして、「ちょっといいかな」と言いながら平気で一時間も部下を拘束する現代のマネージャーたちとは違い、きっちりと拘束時間を宣言し、それを守ろうとしている。
(ちゃんと他人の時間を気にしてくれるなんて。なんてホワイトな王太子様なの……)
前職のパワハラ上司の顔を思い出し、不覚にも少し感動してしまう。
「中庭でのことだが」
私が紅茶に口をつけたタイミングで、彼が静かな、けれど逃げ道を塞ぐような声で切り出した。
「君は私に矛盾を指摘された時、恐怖というより、酷く『焦って』いるように見えた。まるで、何か別の規則に縛られているかのように」
鋭すぎる。
この人は、私が『悪役令嬢』という役を演じている派遣社員であることまでは当然知らない。
だが、私の不自然な行動原理を的確に観察し、言語化しようとしている。
NPCの挙動ではない。目の前の男は、間違いなく自分の頭で思考し、私という人間を分析している。
「気のせいですわ。わたくしはただ、殿下のような方に誤解されるのが心外だっただけ」
私はマニュアル通りの高慢な態度を取り繕い、冷たく言い放った。
ヴィルヘルムは氷のように澄んだ青い瞳で私をじっと見つめ返した。
怒りはない。ただ、私の嘘の底にあるものを探るような、静かな視線だった。
やがて、テーブルに置かれた彼の懐中時計が、微かな音を立てた。
「約束の十分だ」
ヴィルヘルムは言葉を区切り、立ち上がった。
「引き留めて悪かったな。今日はもう休むといい」
彼は本当に、会話の途中であってもピタリと時間を守った。
王太子という絶対的な権力を持っているにもかかわらず、私の都合を最優先にしてくれたのだ。
「十分だけ」という言葉は、彼にとって単なる気休めではなく、私への明確な約束だったらしい。
「……失礼いたしますわ」
私は静かに一礼し、温室を後にした。
背中を向けて歩き出しながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
(駄目よ、感情移入しちゃ。これはただの仕事なんだから。彼に嫌われるのが私の業務なのよ)
自室へ戻り、重たいドレスを脱ぎ捨てた私は、退勤前の日課である『業務報告書』の作成に取り掛かった。
【本日の業務報告】
・目標:ヒロインへの威圧行動(完了)
・特記事項:王太子との接触時、意図せず好感度警告が発動。
・所感:マニュアルの記載内容について、一部疑問あり。
報告書の送信ボタンを押し、私は手元の規約ページをもう一度見つめた。
会社の説明資料だけが、この世界を『高精度シミュレーション』と呼んでいる。
だが、契約書には『現地住民』と明記され、彼らは自らの意思で時間を計り、思考し、約束を守る。
さらに、規約のずっと後ろの方。
虫眼鏡がないと読めないような極小の文字で、こんな一文が隠されていた。
『本業務は、境界庁・異界交流監理室の外部監査対象となる場合があります』
シミュレーションのゲーム世界に、なぜ現実の行政機関の『監査』が入るのだろうか。
疑念が確信に変わりかけた瞬間、視界が白く染まり、強制的なログアウトの浮遊感が私を包み込んだ。




