第2話 初回業務は『身の程をお知りなさい』
《警告:王太子ヴィルヘルムの対人評価が上昇しました》
《備考:対象は現地住民です。過度な感情干渉は契約違反となります》
空中に明滅する半透明の警告パネルを前に、私は回廊の柱の陰で頭を抱えたくなった。
(……こっちが知りたいんですけど)
声に出せないツッコミを脳内で響かせながら、私は足早にその場を離れた。
王宮の廊下は無駄に広く、そして静かだ。ベルベット生地の重たいドレスを引きずりながら、私はなるべく人とすれ違わないルートを選んで歩を進めた。
時給三千円。一日四時間勤務で三十日間。
さらに「シーン成立手当」が加われば、ひと月で軽く四十万円を超える計算になる。
神田の事務用品卸会社で働く私の手取りは、残業を頑張っても月に二十万そこそこだ。来月にはアパートの更新料が控え、冷蔵庫は異音を発し始め、奨学金の返済はまだ何年も残っている。
まさに生活防衛のための、背に腹は代えられない決断だった。
『秋葉原の地下から異世界へ通勤し、悪役令嬢を演じる』という求人を見たときは新手の詐欺かと思ったが、御堂人材サービスの待合室で本物のスライムの粘液を拭いている清掃員を見た瞬間、思考を放棄して契約書にサインした。
派遣社員の代わりなど、いくらでもいる。
期待された役割をこなし、波風を立てず、定時で帰る。それが生き残るための鉄則だ。
しかも派遣先では、勤怠や受発注システムの不具合確認から、権限申請、業者へ送るログの採取まで、なぜか事務の私に回ってくる。プログラムは書けないが、手順書を読み、正規の保守画面から原因を切り分けることには妙に慣れていた。
(だから、絶対にクビになるわけにはいかないのよ……!)
ヒロインであるリリーナに嫌味を言う初回業務は、なんとかこなせたはずだ。
台帳をこっそり滑らせて返したのは完全なアドリブだったが、彼女の実害を防ぎつつ「威圧行動」の規定はクリアした。完璧なリスク管理だと言っていい。
まさかそれを、ターゲットである王太子本人に見られているとは思わなかったが。
私は人気のない中庭に続くテラスを見つけ、ふう、と大きく息を吐き出した。
豪奢な彫刻が施された石のベンチに腰を下ろそうとした、その時だった。
「ずいぶん優しい嫌がらせだな」
背後から降ってきた静かな、しかしよく通る低い声に、私の心臓は跳ね上がった。
振り返ると、テラスの入り口のアーチに寄りかかるようにして、ヴィルヘルム・アーデルハイトが立っていた。
先ほど文書院の前で見かけた、漆黒の軍服姿のままだ。燃えるような金糸の髪が、午後の日差しを受けて鋭く輝いている。
いつの間に先回りしていたのか。足音ひとつ、気配ひとつ感じなかった。
(落ち着け。私はヨリエル。悪役令嬢ヨリエル・フォン・ローゼンベルク)
私はゆっくりと立ち上がり、ドレスの裾をつまんで完璧なカーテシー(淑女の礼)をして見せた。
顎を少し上げ、見下すような視線を作る。
「何のことか、存じ上げませんわ。王太子殿下」
「文書院の前でのことだ」
ヴィルヘルムは腕を組んだまま、氷のような青い瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。
「平民上がりの男爵令嬢に、随分と厳しい言葉を投げかけていたな」
「当然の処置ですわ。あのような教養の欠片もないネズミが、王宮をうろついていること自体が不愉快なのです」
マニュアルに記載されていた台詞のバリエーションを繋ぎ合わせ、私は冷ややかに言い放つ。
さあ、私を軽蔑して立ち去ってくれ。
しかし、ヴィルヘルムの表情は微塵も動かなかった。怒るでも、呆れるでもなく、ただひたすらに私という人間を『観察』している。
「なるほど。ネズミ相手だから、床に散らばった書類を一枚も踏まないように、わざわざ不自然な歩幅で避けて歩いたのか」
「っ……!」
私は息を呑んだ。
見られていた。嫌味を言いながら立ち去る際、重要な公文書を汚さないよう、私が必死に足元をコントロールしていたことまで。
「それに、あの台帳だ」
ヴィルヘルムが一歩、私に向かって足を踏み出す。
威圧感に思わず後ずさりしそうになるのを、足の指に力を入れて必死に堪えた。
「本当に彼女を陥れたいなら、拾い上げるふりをして窓から投げ捨てるなり、池に沈めるなりすればいい。わざわざ彼女が探しやすい進行方向へ、音も立てずに滑らせてやる必要などないはずだ」
「そ、それは……わたくしの手が汚れるのが嫌だっただけで……」
「ヨリエル」
私の苦しい言い訳を、ヴィルヘルムが静かに遮った。
その声には、責めるような響きはない。ただ、圧倒的な事実だけが提示されていた。
「君の言葉と行動は、ひどく矛盾している」
彼の青い瞳が、私という人間の内側まで見透かそうとしているかのようだった。
ゲームのNPC? プログラムされたキャラクター?
冗談じゃない。目の前にいるこの男は、周囲の状況を的確に把握し、人間の微細な行動のズレを見抜く、紛れもない『本物の人間』だ。
沈黙がテラスに降りた。
私は次の台詞を見つけられず、ただ唇を引き結ぶことしかできない。
ヴィルヘルムはそれ以上私を問い詰めることはしなかった。
彼にとって、私の矛盾を指摘したこと自体が、何かの確認作業だったかのようだ。
「……用件はそれだけだ。邪魔をしたな」
短い言葉を残し、ヴィルヘルムは踵を返した。
軍靴の音が遠ざかり、完全に彼の気配が消えるまで、私は石像のように固まっていた。
「……っあぶな、息止まるかと思った……」
膝から力が抜け、私はベンチに崩れ落ちた。
初日から何という大失態だろうか。嫌われるはずが、逆に『底意地の悪くない人間』だと見抜かれてしまった。
しかも相手は、国政を担う王太子。観察眼のレベルが違いすぎる。
(とにかく、次はもっと完璧に嫌われないと。契約不履行で減給なんて絶対にお断りだ)
そう気を引き締めた瞬間、視界の端に浮かび上がった業務端末が、不吉な赤い警告光を点滅させた。
《警告:王太子ヴィルヘルムの自発的干渉を検知》
《業務規定第三条違反の恐れあり》
《恋愛関係は即時回収対象となります。速やかに軌道修正を行ってください》
恋愛関係?
私は端末の文字を二度見した。
たった今、理詰めで行動の矛盾を論破されたばかりなのだが、この会社のシステムは一体何をどう判定しているのだろうか。




