第1話 退勤打刻機の前で、魔王が泣いていた
退勤打刻機の前で、魔王が泣いていた。
「今日も勇者に倒されてきたのに、残業代が出ないんだが」
隣では聖女役のギャルが、コンビニおにぎりを開けながらため息をつく。
「殉教シーン、週三は普通に労災っすよ」
秋葉原の雑居ビル地下三階。
御堂人材サービス秋葉原支店、その地下に隠された『異世界人材バンク』の転送待合室。
ここでは勇者も魔王も聖女も、タイムカードを押してから世界を救い、滅ぼし、祈って死ぬ。
私、日下部依子、二十六歳。昼は神田の派遣事務。
今夜から三十日間の副業は、悪役令嬢として王太子に嫌われることだった。
蛍光灯がジリジリと鳴る無機質な待合室。パイプ椅子に座る私の隣で、ツナマヨおにぎりを飲み込んだ聖女役――先輩派遣のミサキさんが、ふと真顔になった。
「ヨリちゃん、初出勤だっけ。一つだけ覚えときな」
彼女の視線が、私の手元のバインダーへ向けられる。
「現地の人をNPCだと思ったら終わる。それだけ」
どういう意味ですか、と聞き返す前に、「一番ブース、転送入ります」とスピーカーから無機質なアナウンスが響いた。
理由は語られないまま、私は立ち上がる。
タイムカードを機械に通すと、ガチャンという重い音がした。
カプセル型の転送機へ足を踏み入れる。
三十日間、時給三千円と手当のため。割り切って稼ごう。
目を閉じると意識が白く染まり、無重力のような浮遊感が全身を包んだ。
次にまばたきをした瞬間、空気が変わった。
秋葉原の地下の埃っぽい匂いから、微かに花の香りが混じる澄んだ風へ。
私は、見知らぬ豪奢な部屋の姿見鏡の前に立っていた。
そこに映るのは、銀色のうねる長い髪に、意志の強そうな赤い瞳を持った美女。
設定年齢二十二歳。アーデルハイト王国の悪役令嬢、ヨリエル・フォン・ローゼンベルク。
これが、会社が用意した私の『役体』だ。
ドレスのベルベット生地の重みと、コルセットの締め付けに短く息を吐く。
視界の端に、半透明の業務端末が浮かび上がった。
【本日の業務指示:王宮文書院へ赴き、見習いの男爵令嬢リリーナに身分差をわからせること】
空中に浮かぶ文字を確認し、私は部屋の重厚な扉を開けた。
王宮の回廊は驚くほど精巧で、大理石の床は鏡のように磨き上げられている。
すれ違うメイドや文官たちは、私の姿を見るなりサッと青ざめ、壁際に張り付いて慌てて道を譲った。
どうやら『ヨリエルという悪女は恐ろしい』という輪郭のない認識だけが、すでにこの世界へ刷り込まれているらしい。
私は昼間の派遣事務で培った『無駄のない歩行』を活かし、背筋を伸ばしてツカツカと歩みを進める。ピンヒールの足音が冷たく響いた。
目的地の王宮文書院は、すぐに見つかった。
入り口の重厚な扉の前で、地味な制服を着た小柄な少女が、今にも崩れそうな書類の山を抱えて立ち尽くしている。
男爵令嬢リリーナ。この物語のヒロイン役だ。
私は端末のマニュアル台詞を脳内で確認し、歩みを止めずに冷ややかな声音を放った。
「邪魔よ。平民上がりがうろちょろしないでちょうだい」
ビクッと肩を震わせ、リリーナが振り返る。
大きな瞳が怯えに揺れていた。
「も、申し訳ありません、ヨリエル様」
「身の程を知りなさい。あなたのようなネズミが、王太子殿下の視界に入るなどおこがましいにも程がありますわ」
完璧な発声、完璧な見下す角度。
心の中では(言い過ぎた!ごめんね!)と平謝りしているが、私の表情筋は微塵も動かない。
怯えたリリーナが後ずさりし――その拍子に足をもつれさせ、バランスを崩した。
バサバサバサッ!
抱えていた書類と台帳が床に散乱する。
周囲の役人たちが息を呑み、遠巻きにこちらを窺い始めた。
ここで手を貸せば業務失敗だ。私は冷たく鼻を鳴らすと、散らばった紙を決して踏まないようにだけ注意して、優雅にその場を立ち去った。
視界の端で【シーン成立:規定報酬クリア】の文字が点滅する。
よし、第一段階クリア。
私は文書院の角を曲がり、人目のない柱の陰で足を止めた。
ふう、と短く息を吐く。人に面と向かって嫌味を言うのは、想像以上に精神力を削られる。
その時、足元に違和感を覚えた。
ドレスの長い裾に、分厚い革張りの本が引っかかっている。
先ほどの騒ぎで滑ってきたらしい。表紙には『王家貸出記録』とある。
(あ、これ……さっきの子が落としたやつだ)
重要書類だ。これを紛失すれば、彼女は責任を問われる。
最悪、文書院を解雇されるかもしれない。そうなれば私の三十日間の仕事も消滅する。
私は素早く周囲を確認した。廊下には誰もいない。
角の向こうから、半泣きで床を這うように書類を集めるリリーナの気配がする。
私は柱の陰からそっと手を伸ばし、彼女が次に向くであろう進行方向の床へ、台帳を音もなく滑らせた。
「……え? あ、あった! よかったぁ……」
安堵する小さな声が聞こえた。
私はホッと胸を撫で下ろした。
よし、これで実害は防げた。業務記録には『威圧行動を完遂』とだけ報告しておけばいい。
完璧な段取りだ。今日も定時退社が見えてきた。
踵を返そうとした、その時だった。
「…………」
頭上から降ってきた無言の圧力に、私はビクッと肩を跳ねさせた。
振り返ると、すぐ背後の彫像の影に、一人の青年が立っていた。
燃えるような金糸の髪に、氷のように冷たく澄んだ青い瞳。
仕立ての良い漆黒の軍服に身を包んだその姿は、ただ立っているだけで周囲の空気を支配するような強烈な威圧感を放っている。
王太子、ヴィルヘルム・アーデルハイト。
三十日後に私を断罪する予定の、メインヒーローだ。
彼は柱に背を預け、腕を組んだまま、私を見下ろしていた。
長い自己紹介など必要ない。その鋭い瞳が、私が台帳をこっそり滑らせて返した一連の行動を、最初から最後まで見ていたと物語っている。
(いつからそこに!? 全く気配がなかった!)
私は咄嗟に淑女のカーテシーをした。
悪役令嬢らしく、毅然とした態度を取り繕う。
しかしヴィルヘルムは何も言わず、ただ静かに、値踏みするように私を見つめている。
その眼差しは、台本上の『悪役令嬢ヨリエル』ではなく、中身の私を直接観察しているようで、背筋が粟立った。
彼は口を開くことなく、やがて興味を失ったように踵を返し、廊下の奥へと歩き去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私はドッと冷や汗をかいた。
(危ない、危ない。初日から目をつけられるところだった。でも、変な行動を見られたし、彼からの印象は最悪になったはず)
そう安堵して、業務端末を閉じようとした瞬間だった。
《警告:王太子ヴィルヘルムの対人評価が上昇しました》
《備考:対象は現地住民です。過度な感情干渉は契約違反となります》
(……こっちが知りたいんですけど)
嫌われるための初出勤は、定時前から失敗していた。




