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悪役令嬢は派遣です。契約外の溺愛はお断りします!〜異世界へ通勤したら、婚約破棄させるはずの王太子に本気で求婚されました〜  作者: 他力本願寺


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40/40

第40話 今日は二人で、定時退社します

光の粒子が収まり、視界がクリアになる。

私の足元にあるのは、秋葉原の薄暗い地下室にあったような違法な転送カプセルではない。霞が関にある境界庁・異界交流監理室の奥に設置された、国が管理する正式な『次元転送ゲート』だ。


私はゆっくりと目を開け、自分の両手を見下ろした。

そこに悪役令嬢ヨリエルの面影はない。銀色の髪も、血のように赤い瞳も、二十二歳の華奢な身体もない。

黒い髪に黒い瞳。仕立ての良い濃紺のパンツスーツに身を包んだ、二十六歳の日本人、日下部依子としての私自身の身体だった。


「――日下部監査官。無事の到着、歓迎いたします」


顔を上げると、転送室の出口に立っていた漆黒の軍服姿の男性が、真っ直ぐな姿勢で敬礼をしてきた。

王太子護衛であり、現在は境界庁との現地連絡官を兼務しているギルベルト卿だ。


「お久しぶりです、ギルベルト卿。……この姿でお会いするのは、初めてですね」

「ええ。ですが、その凛とした眼差しと、隙のない足取りは、私が知るあなたそのものです。……再びこのアーデルハイト王国へ来てくださり、本当にありがとうございます」


彼の表情は以前のような張り詰めたものではなく、穏やかで柔らかな光を帯びていた。

星名部長たちが作り上げたシステムが完全に排除されたこの世界は、空気がどこか澄んでいて、呼吸がしやすい気がした。


「リリーナさんは、いかがお過ごしですか?」

「彼女なら、今頃は王宮文書院で激務に追われているはずです。彼女が立ち上げた『役割契約被害窓口』には、連日多くの被害報告が寄せられています。彼女は一人ひとりの声を聞き、理不尽な契約の解除と救済に奔走していますよ」

「そうですか……。彼女らしい、立派な仕事ぶりですね」


ベルティエ男爵家の債務は、グランツによる不正な利息操作と脅迫契約が認定され、すべて無効となったという。

リリーナさんはもう、家族を人質に取られたヒロインではない。自分の仕事と収入で家族を支えながら、同じように苦しむ人を助けている。


可哀想なヒロイン役を自ら蹴り破った彼女は、もう誰かに救われるのを待つだけの少女ではない。自分の足で立ち、理不尽な役に縛られた人々を導くための強い光となっているのだ。

私も、負けてはいられない。


「殿下は、庭園でお待ちです。ご案内します」


ギルベルト卿に先導され、王宮の回廊を歩く。

すれ違う文官やメイドたちは、見慣れない異国風のスーツを着た私を不思議そうに見ていたが、そこにかつてのような「悪役令嬢を蔑む視線」や「システムに増幅された敵意」は一切なかった。

彼らは皆、自分自身の意思で考え、自分の人生を生きている本物の人間だ。


やがて、美しい薔薇が咲き誇る王宮の庭園へと出た。

白亜のガゼボの下。

そこに、見慣れた王太子の正装を纏った彼が立っていた。


「殿下、日下部監査官をお連れしました」


ギルベルト卿が頭を下げてその場を離れる。

ガゼボに一人立つヴィルヘルムが、ゆっくりとこちらを振り返った。


ドクン、と心臓が高鳴る。

この本来の私の姿を、彼はどう思うだろうか。ヨリエルという絶世の美女のフィルターが外れた、ただの平凡な日本人女性の私を見て、がっかりしないだろうか。

そんなわずかな不安が、胸の奥をよぎった。


だが、ヴィルヘルムの氷青の瞳は、私を真っ直ぐに捉えたまま、ふわりと優しく細められた。


「……ようやく会えたな」

「はい。日下部依子として、境界庁より正式な監査業務にて赴任いたしました」


私が背筋を伸ばして一礼すると、彼は微かに笑いながら歩み寄ってきた。


「外見が違うので、驚かれましたか?」

「いいや。君のその毅然とした立ち姿も、業務報告のように正確な言葉選びも、私が愛した『君』のままだ。銀髪だろうと黒髪だろうと、そんなことは些細な問題でしかない」


ヴィルヘルムは私の目の前で立ち止まった。


「触れてもいいか?」


私が頷くと、彼はその大きな手で、私の頬にそっと触れた。

システムによる好感度表示も、運命の強制力も存在しない。

ただ、一人の男性が、一人の女性を愛おしむための純粋な接触。

その温もりに、私の目頭がツンと熱くなった。


「父は近いうちに退位し、私が正式に国王として立つことになる。手始めに、グランツ宰相が残した負の遺産を一掃し、この国の契約制度を根本から改革しているところだ」

「ええ。私も監査官として、そのお手伝いをさせていただきます」

「頼もしいよ。だが、今日君をここに呼んだのは、仕事の話だけをするためではないんだ」


ヴィルヘルムはそう言うと、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

それは、彼自身の直筆で書かれた、分厚い『契約書』だった。


「これは……?」

「私から君への、新たな契約の申し入れだ。どうか、目を通してほしい」


促されるままに書類を受け取り、私はその文面に視線を落とした。

そこに書かれていたのは、一方的な所有の宣言でも、私を王宮に閉じ込めるための命令でもなかった。


『第一項:日下部依子の監査官としての職務を最大限に尊重し、妨げないこと』

『第二項:日本とアーデルハイト王国を行き来する権利を永久に保証すること』

『第三項:休日の取得、および両者のプライベートな時間を対等に確保すること』


それは、私の仕事、私の居場所、そして私の『自由な選択』を、絶対的に守り抜くという強固な誓約だった。


「君を、権力でこの国に縛り付けるつもりはない。君の仕事も、君の帰る場所も、すべて私が保証しよう」


ヴィルヘルムは真っ直ぐに私の目を見て、静かに、けれど熱を帯びた声で告げた。


「だから、君が自分の意思で……帰る場所の一つに、私を選んでくれないだろうか。私と共に生き、私の妻になってほしい」


それは、冷酷な王太子ではなく、一人の不器用で誠実な男性からの、ありったけの愛を込めた求婚だった。

押し付けるのではなく、私の人生の境界線を守りながら、それでも共にいたいと願い続けてくれる彼の溺愛の形。


私は羊皮紙を胸に抱きしめ、こぼれそうになる涙を必死に堪えながら、私らしい笑顔を作った。


「……労働条件としては、この上なく最高です」

「そうだろう?」

「ええ。私の仕事を辞めさせないこと。そして、これからも対等なパートナーとして、私の言葉を聞いてくださること。……その条件でよろしければ、喜んでお受けいたします」


私の答えを聞いて、ヴィルヘルムは心の底から安堵したように、ふっと破顔した。

彼は私が持つ羊皮紙にそっと手を添え、そのまま私を優しく腕の中に引き寄せた。


「ああ、約束する。君のすべてを尊重し、永遠に愛し抜こう」


硬い胸板越しに、彼の力強い鼓動が伝わってくる。

私も彼の方に腕を回し、その温もりを全身で受け止めた。

もう、誰も私たちを邪魔することはできない。間違った台本は破り捨てられ、私たちは自分たちの足で、この新しい物語のページを開いたのだ。


(さて、最後の報告書をまとめなければなりませんね)


私は心の中で、新しい業務報告書のフォーマットを立ち上げた。


件名:最終業務報告

内容:悪役令嬢役の任務は、契約終了。これより、交際を開始いたします。


誰かに強制された運命ではなく、私自身の意思で選び取ったハッピーエンド。

満ち足りた思いで彼を見上げると、彼もまた、愛おしげに私を見つめ返してくれた。


「依子」


「はい」


「今日はもう帰ろう」


ヴィルヘルムは手を差し出した。命令ではなく、私が選ぶのを待つように。

私は自分の意思で、その手を取った。


「定時だ」

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