第39話 異世界へは、もう出勤できません
秋葉原の雑居ビル地下三階。
黄色い規制テープが幾重にも張られた転送ブースの前で、私は呆然と立ち尽くしていた。
つい先ほどまで、私はあの扉の向こう側にある異世界で、ヴィルヘルムやリリーナさんたちと共に『契約核』の暴走を止めていたのだ。
だが、役体が崩壊して強制ログアウトされた今、目の前にあるのは電源の落ちた無機質な機械の塊だけだった。
「日下部依子さん、ですね。お怪我はありませんか」
背後から声をかけられ、振り返る。
そこに立っていたのは、境界庁・異界交流監理室の身分証を下げたスーツ姿の職員たちだった。
彼らの後ろでは、物語運営部のサーバーからデータを押収する作業が慌ただしく進められている。
「……はい。私は無事です」
「あなたが残してくれたログと、ミサキさんから提出された原契約のおかげで、迅速に動くことができました。違法事業である『異世界人材バンク』は運営免許を取り消し、物語運営部は廃止します。適法な緊急救援派遣だけは切り離し、今後は境界庁の直接監督下で運用します」
職員の言葉に、私は深く息を吐き出した。
終わったのだ。私たちを苦しめ続けた、あの理不尽な台本の世界は。
「離しなさい。私は逃げも隠れもしません」
フロアの奥から、冷ややかな声が響いた。
境界庁の職員たちに囲まれながら歩いてきたのは、星名冴子部長だった。
手錠こそかけられていないものの、彼女の表情にはかつての絶対的な管理者の余裕はない。
だが、それでも彼女の瞳は、最後まで『効率』と『損益』を計算している冷徹な色のままだった。
「星名部長」
私が声をかけると、彼女は歩みを止め、眼鏡の奥から私を見据えた。
「……忌々しいバグですね、あなたは。たかが末端の派遣スタッフが、会社にどれほどの損害を与えたか、理解しているのですか」
「損害を与えたのはあなたです。現地住民を『NPC』と偽り、違法な悲劇を押し付けて因果結晶を搾取した。そのツケが回ってきただけです」
私が毅然と言い返すと、星名部長は鼻で笑った。
「彼らを人間として扱えば、高収益の感情資源など回収できません。私はただ、この事業において最も効率的な評価制度を作り上げただけです。あなたたちスタッフも、現地資産も、すべては交換可能な配役にすぎないのですよ」
星名部長は、そこで初めて自分の正しさを証明するように言葉を継いだ。
「因果結晶がなければ、採算の取れない災害世界への合法救援派遣も維持できない。予算から見捨てられた世界へ人員を送るには、どこかで燃料を確保するしかなかったのです。選ばれた少数の悲劇で、別の多数を救った。私は必要な配分をしただけです」
彼女は最後まで、悪意ではなく『効率』を語った。
それが彼女なりの、歪んだ正義なのだろう。けれど、救われる側にすら知らされない犠牲を、救援と呼ぶことはできない。
「同意のない人から痛みを奪い、その事実を隠して別の誰かを救っても、それは救援ではありません。犠牲者なしでは続かない仕組みなら、止めて作り直すべきです」
私は彼女を真っ直ぐに見返した。
「その交換可能なパーツが、自分たちの意思で台本を破り捨てたのです。……境界庁の方から伺いました。あなたは無許可の役割契約、住民同意の偽造への加担、証拠隠滅、そして生命危険行為で、厳しく捜査されるそうですね」
私の言葉に、星名部長は小さく舌打ちをし、職員たちに連れられて無言で去っていった。
その後ろからは、御堂支店長も連行されてきた。
彼は私を見ると、少しだけ困ったように笑って頭を下げた。
「すまなかったね、日下部くん。君たちにひどい苦労をさせてしまった。……私は支店長職を解かれ、違法案件の紹介と隠蔽に加担した容疑で、これから正式な捜査を受ける」
彼はグレーな加担者だ。最後に原本を出してくれたとはいえ、彼が長年見過ごしてきた罪が帳消しになるわけではない。
それでも、彼が最後に『人』としての良心を見せてくれたことは事実だ。
「……お気をつけて、支店長。いつかまた、胸を張れるお仕事で」
私が短く頭を下げると、支店長は「ああ」と頷き、エレベーターへと消えていった。
後日、境界庁から届いた共同調査の報告書には、両方の世界の処分が記されていた。
星名冴子は、無許可の役割契約、住民同意の偽造、証拠隠滅、業務上の生命危険行為で起訴された。御堂支店長も共犯として捜査対象になり、最後に原本を提出した事実は情状として考慮されるものの、それまでの加担が免責されることはない。
アーデルハイト王国では、グランツ元宰相が王印偽造、国家反逆、暗殺教唆、脅迫、帳簿改ざんの罪で爵位と官職を剥奪され、公開裁判の末に王都牢への終身収監を言い渡された。
彼に名を利用されただけの幼い第二王子は、陰謀に一切関与していないと公に認定され、父王とヴィルヘルムの保護下で穏やかな生活へ戻ったという。
* * *
それから、数週間が過ぎた。
私は神田の事務用品卸会社で、本業である派遣事務の仕事を続けていた。
異世界でのあの濃密な三十日間に比べれば、現代のオフィスワークは驚くほど単調で、平和だ。
けれど夜になると、もう存在しない業務端末を無意識に探してしまう。白檀の香りも、低い声で呼ばれた本当の名も、思い出すたび少しずつ遠ざかっていく気がした。
ヴィルヘルムの「また会おう」という約束を信じたかった。それでも、二度と開かない扉の前で交わした言葉は、叶わない願いだったのではないかと胸が冷える夜もあった。
「日下部さん、悪いんだけど、この午後の会議の資料、定時までにまとめておいてくれない?」
終業間際、正社員の上司がいつものように自分の仕事を押し付けてきた。
以前の私なら、波風を立てるのを恐れて曖昧に笑い、無言で残業を引き受けていただろう。
だが、悪役令嬢として異世界のシステムに立ち向かった今の私に、理不尽な要求を受け入れる義理はない。
「申し訳ありませんが、その資料作成は私の業務範囲外です。それに、定時までに終わる作業量ではありません」
「そこをなんとか頼むよ。君、いつも手際がいいじゃないか」
「でしたら、次回の契約更新で業務範囲の明確化と、時給の交渉をさせていただきます。……というよりも、私、本日で契約満了にて退職いたしますので、その作業はお受けできません」
私がきっぱりと告げると、上司は「えっ?」と間抜けな声を上げた。
私は、誰かに都合よく使われるだけの交換可能な人材ではない。
自分を安売りせず、条件を提示し、納得できなければ自分の意思で立ち去る。
それが、異世界での戦いを通して私が得た、私自身の『到達点』だった。
「お世話になりました。引き継ぎのファイルは、すべて共有フォルダに保存してあります。では、定時ですので失礼いたします」
時計の針が十八時を指したのを確認し、私はきっちりと頭を下げてオフィスを後にした。
翌日。
私は霞が関にある、境界庁・異界交流監理室のオフィスに足を運んでいた。
出迎えてくれたのは、見慣れたギャル風のメイクに、パリッとしたスーツを着こなしたミサキさんだった。
「お、ヨリちゃん! スーツ似合ってんじゃん!」
「ミサキ先輩……! その節は、本当にありがとうございました」
ミサキさんは内部告発者保護を受け、今は境界庁が監督する合法派遣の『研修担当』として働いているという。
『現地住民はNPCではなく人間である』という基本中の基本を、新人のスタッフに叩き込むのが彼女の新しい仕事だそうだ。
過去の痛みを乗り越え、前を向いて笑う彼女の姿に、私は心から安堵した。
廊下の労働相談窓口には、初出勤の日、退勤打刻機の前で泣いていた魔王役の男性が座っていた。今は濃紺のスーツ姿で、未払い残業代と労災の救済決定通知を両手に握り、また涙をこぼしている。
「今度は、ようやく残業代が全部出るって言われて泣いてんの」
ミサキさんがそう囁く。私は思わず笑い、それから、胸の奥で静かに安堵した。
あの日の待合室にいた人たちの時間も、ようやく記録の外へ捨てられずに済んだのだ。
「でさ、今日ヨリちゃんを呼んだのは他でもないんだけど。……うちの室長が、どうしてもあんたに会いたいってさ」
ミサキさんに案内された応接室で待っていたのは、先日秋葉原で会った女性監査官だった。
彼女は机の上に分厚いファイルを置き、私に真っ直ぐな視線を向けた。
「日下部依子さん。あなたが残してくれた三十日間の業務報告書とシステムログは、完璧でした。あの極限状況の中で、あれほど冷静に証拠を保全し、事態を収拾した事務処理能力は、高く評価されています」
「恐れ入ります」
「つきましては、境界庁で『異界交流監査官』として働きませんか? 違法な派遣を監視し、二つの世界の適切な関係を守る、公的な仕事です」
私は驚きで目を見開いた。
派遣社員ではなく、境界庁の正式な職員としての打診。
それは、私のこれまでの実務能力が、正当に評価されたということだ。
恋愛や誰かの力に頼ったわけではない。私自身の手で掴み取った、新しい道。
「……謹んで、お受けいたします」
私が深く頭を下げると、監査官は「よかった」と微かに頬を緩めた。
「では、日下部監査官。さっそくですが、あなたに最初のお仕事をお渡しします。公的な外交ルートを通じて、当庁に届いたものです」
監査官が机の上から滑らせてきたのは、業務の指示書やマニュアルではなかった。
それは、純白の分厚い封筒。
裏側には、私が何度も書類で目にしたことのある、アーデルハイト王国の王家の印が、深紅の蝋で押されていた。
「これは……」
震える手で封筒を開け、中から上質な羊皮紙を取り出す。
そこには、凛とした美しい筆跡で、たった数行の短い文章が書かれていた。
『監査官就任、おめでとう。君の仕事と時間を尊重する用意はできている。
――君の帰りを、待っている。 ヴィルヘルム』
派遣依頼ではない。
それは、彼が私という人間を対等なパートナーとして迎えるための、正式な『招待状』だった。
私は手紙を胸に抱きしめ、堪えきれずにポロポロと涙をこぼした。
異世界人材バンクの違法な転送ブースから、もう出勤することはできない。
でも、私は私の足で、自分の名前で、彼のもとへ帰ることができるのだ。




