第38話 契約終了。悪役令嬢役を返上します
赤黒く脈打つ巨大な水晶――『契約核』が、断末魔のような低い音を立てて膨張を始めた。
星名部長が手動で固定した暴走シークエンスにより、水晶の内部に蓄積された莫大な『因果結晶』のエネルギーが限界点を超えようとしているのだ。
地下室の石造りの天井に亀裂が走り、パラパラと瓦礫が崩れ落ちてくる。
「殿下、リリーナさん、ギルベルト卿! わたくしが端末から正規の緊急安全停止を実行します。それまで、水晶の暴走を少しでも抑え込んでください!」
私が叫ぶと、三人は迷うことなく水晶の前に立ち塞がった。
「承知した!」
ヴィルヘルムが水晶から噴き出す魔力の暴風を剣で切り裂き、ギルベルトがその隣で盾となって崩れ落ちてくる瓦礫を弾き飛ばす。
リリーナさんは二人の背後に立ち、王宮の書物で得た知識を総動員して、水晶の魔力の流れを大声で読み上げ、彼らの動きを的確にサポートしていた。
誰一人欠けても成立しない、完璧な連携。
私は震える指先で業務端末を操作し、保守規約に記載されていた【契約核・緊急安全停止】の画面を開いた。
必要なのは、三人の役割拒絶を示す行動ログ、境界庁の監査回線、そして現在の異常状態を示す自動診断記録。どれもすでに揃っている。
ただし、実行中の処理一覧には、星名部長が去り際に仕掛けた『証拠隠滅処理』が表示されていた。暴走と同時に、システム内のデータを全消去する命令だ。
「星名部長……あなたはどこまでも、合理的で冷酷な人ですわ」
私は画面に並ぶ処理履歴を追いながら、ギリッと唇を噛み締めた。
彼女は自分の敗北を悟った瞬間、この世界を道連れにしてでも、自らの罪の証拠をすべて消し去ろうとしたのだ。
「でも、わたくしは日下部依子。……データを保存して残すことにかけては、誰にも負けません!」
ターンッ!
私は【実行】を押し、境界庁へ繋がっている監査回線と、目の前の契約核を正規の保守接続で結んだ。
証拠隠滅処理を止めようとすれば、間に合わない。そこで私は、データが消去されていく過程そのものを自動診断ログとして記録し、リアルタイムで境界庁のサーバーへ送信する項目にチェックを入れた。
《エラー:証拠隠滅プロトコルの実行履歴を外部へ送信中》
《警告:システムのシャットダウンシーケンスへ移行します》
私が送った緊急安全停止の申請が、水晶の内部で受理された瞬間。
暴走を続けていた赤黒い光が、嘘のようにスッと収束し、元の澄んだ青白い色へと戻った。
ドクン、という最後の脈動を終え、巨大な水晶はゆっくりとその輝きを失い……ただの巨大な石の塊となって、完全に沈黙した。
「……止まったか」
ヴィルヘルムが剣を下ろし、荒い息を吐きながら水晶を見上げた。
ギルベルトも膝をつき、リリーナさんが安堵のあまりその場にへたり込む。
終わったのだ。
この世界を縛り付けていた悲劇の台本は、今、私たちの手によって完全に破り捨てられた。
「やりましたね……。これで、会社側が罪を逃れることは絶対に不可能ですわ」
私が微笑みかけた、その時だった。
私の足元から、パキィンという乾いた音が響いた。
「っ……!」
見下ろすと、私の役体の足元から、無数の光の粒子が立ち上っていた。
膝から下が完全に透過し、向こう側の景色が透けて見えている。
三つの契約錠が破壊され、契約核が停止したことで、私をこの世界に繋ぎ止めていた『悪役令嬢役』としての存在理由が、完全に失われたのだ。
「依子!」
ヴィルヘルムが血相を変えて駆け寄り、私の肩を抱き寄せようとした。
だが、彼の手は私の身体をすり抜け、空を切った。
「殿下、もう、触れることはできません。……わたくしの業務は、これで終了です」
私は透過していく自らの手を見つめながら、静かに微笑んだ。
強制ログアウトのカウントダウンが、冷たく脳内に響いている。
「そんな……行かないでください、ヨリエル様……っ」
リリーナさんが涙をこぼし、ギルベルトも沈痛な面持ちで目を伏せた。
ヴィルヘルムの青い瞳が、激しく揺れている。
彼なら、王太子としての権力や魔法の力を使ってでも、私をここに繋ぎ止めようとするかもしれない。
でも、彼はそれをしなかった。
私の意思を、私が元の世界で生きる一人の人間であることを、誰よりも尊重してくれているからだ。
「……依子。君は、自分の世界に帰るのだな」
ヴィルヘルムの声は震えていたが、決して私を無理に引き留めようとはしなかった。
「はい。わたくしには、あちらの世界で果たすべき責任と……満了しなければならない『本業』の契約がありますから」
私は派遣社員だ。どんなにこの世界が愛おしくても、仕事を途中で投げ出して逃げるような真似はしたくない。
それを聞いたヴィルヘルムは、寂しげに、けれどひどく優しい顔で微笑んだ。
「そうか。君らしいな。……最後まで、立派な仕事ぶりだった」
「殿下……」
「別れは言わない。君がどこにいても、私は必ず……君を見つけ出す。だから、また会おう」
彼の力強い言葉に、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「はい……! わたくしも、必ず……!」
光の粒子が、私の全身を包み込む。
ヴィルヘルムの青い瞳、リリーナの涙、ギルベルトの敬礼。
愛おしい人たちの姿が、白い光の中に溶けて消えていく。
(ああ、やっと……定時退社ですね)
その思いを最後に、私の意識は暗闇へと沈み込んでいった。
* * *
「……ハッ!」
大きく息を吸い込み、私は跳ね起きるように目を開けた。
ひんやりとした無機質な空間。消毒液の匂いと、機械の低い駆動音。
私は、秋葉原の雑居ビル地下三階にある、異世界人材バンクの転送カプセルの中で目覚めたのだ。
「ヨリちゃん!!」
カプセルのハッチが開くと同時に、ミサキさんが泣き顔で飛びついてきた。
その後ろには、青ざめた顔の御堂支店長と、見知らぬスーツ姿の男女――おそらく、境界庁の監査官たちの姿があった。
「ミサキ先輩……。私、戻ってこられたんですね」
「バカ、心配させんなし! ログ、ちゃんと全部届いたから! 星名のおばさんも、さっき別のフロアで境界庁の人たちに拘束されたよ!」
ミサキさんの言葉に、私は全身の力が抜けてカプセルの中にへたり込んだ。
勝ったのだ。私たちは、あの狂った会社に。
「日下部さん、ですね。お疲れ様でした。あなた方の提出した証拠により、この違法事業は完全に凍結されました」
スーツ姿の女性監査官が、事務的な声で私に告げた。
その言葉を聞いて、私はふと、転送室の奥にある巨大なメインゲート――私たちが毎夜、異世界へと出勤していた扉に目を向けた。
その扉には、何重にも黄色い規制線が張られ、『境界庁封鎖指定・立入禁止』の札が貼られていた。
「あの扉は……」
「違法なポータルはすべて封鎖しました。今後、この会社からあの世界への転送が行われることは、二度とありません」
監査官の言葉が、冷酷な事実として私の胸に突き刺さった。
わかっていたことだ。
あの世界を救うということは、この違法な会社を潰すということ。
会社が潰れれば、ただの派遣社員である私が、アーデルハイト王国へ行く手段は永遠に失われる。
ヴィルヘルムに『また会おう』と約束したけれど。
閉ざされた扉を前に、私はただ、手のひらに残る彼の涙の感触を、強く握りしめることしかできなかった。




