第36話 悪役令嬢の仕事は、間違った台本に立ちはだかることです
《警告:本契約錠の破壊は、該当役体の論理崩壊を伴います》
端末の画面に浮かび上がった無慈悲なシステムメッセージを前に、地下室は重苦しい静寂に包まれた。
契約核に巻き付いた最後の一本の光の鎖。
それを壊せば、この世界を縛る強制力は完全に消滅する。
だが同時に、私という存在をこの世界に繋ぎ止めている『悪役令嬢ヨリエル』の身体もまた、消え去ってしまうのだ。
「……依子、待て。何か別の方法があるはずだ」
ヴィルヘルムが、青ざめた顔で私に歩み寄り、その手で私の肩を強く掴んだ。
「君が消えてしまうなど、そんな結末を私は望んでいない。境界庁の監査回線が開いているのなら、外からの強制停止を待てば……!」
「殿下、わたくしたちにはもう時間がありません」
私は彼の切実な言葉を遮り、静かに首を振った。
「王宮の上を見てください。リリーナさんが第二の鎖を壊してくれたおかげで、多くの人が正気を取り戻しつつあります。でも、システムはまだ完全に停止したわけではなく、今も強烈な修正圧で人々を苦しめています。……このままでは、暴走したシステムがアーデルハイト王国そのものを崩壊させてしまいますわ」
私がそう告げると、ヴィルヘルムはギリッと唇を噛み締め、俯いた。
彼もわかっているのだ。ここで私一人が自己保身に走れば、彼が命懸けで守ろうとした民が、そしてこの国がどうなるかということを。
「それに……」
私はヴィルヘルムの肩に手を置き、その真っ直ぐな青い瞳を見つめ返した。
「わたくしは、もう決めたのです。自分の意思で、この仕事を終わらせると」
私はヴィルヘルムから離れ、契約核に向かって一歩、また一歩と歩みを進めた。
最後の一本の鎖が、私を威嚇するように赤黒い光を激しく明滅させている。
私は業務端末の【公的宣言記録】を開き、王宮全体へ届く拡声魔導具、王国記録院、そして境界庁の仮監査回線を同時に選択した。
《三系統への同時記録を開始します》
《本宣言は、公的かつ改ざん不能な記録として保存されます》
「初めは、ただ時給三千円の副業のために、この世界へ来ました。言われた通りにヒロインをいじめ、王太子に嫌われれば、それでいいと思っていました」
私は大きく息を吸い込み、契約核――そして、それをモニターの向こうで見ているであろう星名部長たちに向かって、はっきりと声を張り上げた。
「ですが、わたくしは間違っていました。……いいえ、あなた方が間違っていたのです!」
私の声が、地下室に高く響き渡る。
「契約は、人を役割に閉じ込めるための命令書ではありません! 互いの意思と境界を確かめ合い、より良い未来を作るための約束です! あなた方はそれを『台本』という檻に変え、生きた人間から選択の自由を奪いました!」
私が言葉を紡ぐたび、端末の画面に赤いエラーコードが滝のように流れていく。
システムが私の『逸脱』を検知し、強烈な排斥処理を実行しようとしているのだ。
ヨリエルの身体のあちこちが、チカチカとノイズにまみれて透過し始めている。
痛覚はない。だが、自分が世界から削り取られていく確かな感覚があった。
「依子様……っ!」
「泣かないで、リリーナさん。あなたはもう、自分の足で立てる立派なレディですわ」
涙ぐむリリーナさんに微笑みかけ、私は再び前を向いた。
「わたくしの本当の仕事は、誰かを傷つけることではありませんでした。……この、間違った台本そのものに立ちはだかり、破り捨てること。それが、日下部依子という派遣社員が、最後に果たすべき業務です!」
私は両手を強く握り締め、腹の底から、ありったけの力で叫んだ。
「私、日下部依子は、悪役令嬢ヨリエルの役を、今ここで完全に返上いたします!!」
パキィィィィィンッッ!!!
その瞬間、耳をつんざくような凄まじい破砕音が鳴り響いた。
契約核を縛っていた最後の一本の鎖が、私の宣言と共に跡形もなく砕け散る。
三つの『契約錠』がすべて破壊され、禍々しい光を放っていた巨大な水晶が、ついにその無防備な本体を晒した。
「やった……っ!」
私が安堵の息を吐いた直後。
私の身体のノイズがさらに激しくなり、足元からパラパラと光の粒子になって崩れ始めた。
強制ログアウトのシークエンスが始まったのだ。
「依子!」
ヴィルヘルムが手を伸ばして駆け寄ってくる。
私は崩れゆく身体で彼に向き直り、最高の事務員としての笑顔を作ってみせた。
「殿下、あとは……あの水晶を、完全に停止させるだけです。どうか、あなた方の世界を……」
私が言い終わるより早く。
『――本当に、最後まで小賢しいスタッフですね』
背筋が凍るような、絶対零度の声が地下室に響いた。
「な……っ!?」
ヴィルヘルムが足を止め、剣を構え直す。
契約核のすぐ隣。何もない空間が水面のようにぐにゃりと歪み、そこから一人の人間の姿がぬらりと現れた。
黒縁眼鏡に、仕立ての良いタイトなスーツ。
一切の感情を感じさせない冷たい瞳。
それは、ホログラムなどの映像ではない。
「星名、部長……」
私は崩れゆく身体のまま、その人物の名前を呆然と口にした。
星名冴子。
異世界人材バンク・物語運営部のトップが、自ら用意した『修正用の役体』を使い、システムの外側から直接この物理空間へ降り立ってきたのだ。
「どうして、あなたがここに……!」
「すべてを初期化しようとしたのに、あなたたちがしぶとく足掻くからです。……契約錠が破壊されたとはいえ、まだシステムへの直接介入は可能です」
星名部長は手元のマスタータブレットを冷酷に操作しながら、無防備になった契約核の本体に直接手を触れた。
「私が手動で、この契約核の暴走を限界まで引き上げ、強制的に世界を初期化します。ええ、あなたというバグを完全に消去した上でね」
契約核が、先ほどまでとは比べ物にならないほどの暴力的な赤い光を放ち始めた。
王宮の地下そのものが激しく揺れ、崩落の危険すら感じるほどのすさまじいエネルギーの奔流。
「やめろ! これ以上、私の国を好きにはさせない!」
ヴィルヘルムが怒号と共に星名に向かって斬りかかるが、彼女の周囲に展開された分厚い物理障壁に阻まれ、剣が弾き返される。
「無駄です。これは私の一存ではない。会社としての、利益を守るための決定事項ですから」
星名の冷酷な宣告が、絶望のように響き渡る。
私の身体はもう半分以上が透過し、立っていることすら限界に近づいていた。
だが、物語はまだ終わっていない。
現代で奔走しているミサキさんの告発が、最後のピースを待っているはずだ。
(御堂支店長……お願い、あなたが残した『抜け穴』を、今こそ……!)
私は崩れゆく意識の中で、現代の秋葉原にいるはずのグレーな上司の顔を、ただ強く思い浮かべていた。




