第35話 可哀想なヒロインは、もう泣かされない
《次期初期化ターゲットをロック:『可哀想なヒロイン役』》
私の業務端末から放たれた無機質な赤い光が、薄暗い地下室を照らした。
契約核に巻き付いた残り二本の光の鎖のうち、一本が蛇のように蠢き、鋭い切先となってリリーナさんへと向いた。
「っ……!」
リリーナさんが短く息を呑み、その場に膝をついた。
彼女の華奢な肩がガタガタと震え、大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ち始める。
役割契約による強烈な『感情の増幅』と『行動誘導』だ。
システムは彼女に、力を持たない可哀想な被害者として振る舞い、王太子の腕の中に逃げ込んで庇護を求めるよう、強烈な修正圧をかけているのだ。
「リリーナさん!」
私が駆け寄って背中を支えようとするが、彼女の身体は氷のように冷たくなっていた。
『助けて、殿下……。私は怖い、誰か私を守って……』
彼女の口が、彼女自身の意思とは関係なく、勝手に甘えたような悲鳴を紡ごうとする。
それは、会社が設定した『ヒロイン』のテンプレそのものだった。
自分の足で立たず、ただ運命に翻弄されて泣きじゃくり、強い男性に選ばれることでしか救われない存在。
それが、星名部長たち物語運営部が彼女に押し付けた『価値』だ。
「……ふざけ、ないで」
リリーナさんが、血の滲むような声で自らの唇を噛み締めた。
彼女は震える両手で床を突き、必死に顔を上げようとする。
「私は……わたくしは、そんな安い涙を流すために、今日まで生きてきたのではありません……っ!」
彼女は男爵家の長女として、没落寸前の家族を養うために王宮文書院へ入った。
貴族社会の冷酷なパワーゲームの中で生き残るため、彼女は自分の武器が『弱く見えること』だと熟知し、それを徹底的に利用してきたのだ。
「リリーナ嬢、無理をするな! 私が契約核を……!」
ヴィルヘルムが剣を構えて水晶に斬りかかろうとするが、目に見えない強固なシステム防壁が刃を激しく弾き返す。
物理的な干渉では、決してこの鎖は切れない。
「殿下、お待ちください。……リリーナさんなら、絶対に一人で立ち上がれますわ」
私はヴィルヘルムを制止し、リリーナさんの背中にそっと手を添えた。
励ますのではない。彼女が自分自身の力で、この理不尽なシステムを打ち破ると信じているからこその沈黙だ。
「……ええ。わたくしはもう、誰の台本にも従いません」
リリーナさんが、ふらつく足取りでゆっくりと立ち上がった。
彼女の頬を濡らしていた涙は、もはや恐怖によるものでも、システムに強要されたものでもなかった。
それは、自らの意思と誇りを踏みにじられたことへの、静かで激しい怒りの涙だ。
彼女は、ヴィルヘルムが先ほどまで使っていた王宮全域へ声を届ける拡声魔導具の前へ歩み寄った。
「王宮の皆様、どうか聞いてください。私は、王宮文書院見習い、リリーナ・ベルティエです」
彼女の凛とした声が、魔導管を通じて王宮中に響き渡る。
先ほどまでの混乱と悲鳴は、ヴィルヘルムの告白によって鎮静化しつつあったが、まだ完全にはシステムの支配から抜け切れていない者も多いはずだ。
「グランツ宰相は、私の家族の借金を盾に取り、私を王太子殿下を陥れるための道具として使おうとしました。私は毎夜、自分と殿下が破滅する悪夢にうなされ、誰にも助けを求められず、ただ怯えて泣くことしかできませんでした」
彼女は、自分がどれほどの恐怖の中にいたかを隠さずに語った。
「でも、ある方が教えてくれたのです。私はただの『可哀想なヒロイン』ではなく、自分の意思を持った一人の人間なのだと」
リリーナさんが、ふとこちらを振り返り、私に向けて涙混じりの美しい微笑みを向けた。
悪役令嬢とヒロイン。
本来なら争い合うようにデザインされた私たちが、同盟を結び、互いを尊重し合った休憩室での日々が脳裏に蘇る。
「わたくしはもう、誰かの同情を引くための便利な道具にはなりません。家族の借金も、自分自身の未来も、誰かに頼るのではなく、わたくし自身の足で解決してみせます」
リリーナさんは魔導具の前に立ち塞がり、天井を、そしてこの世界を監視しているであろうシステムそのものを睨みつけた。
「泣く角度は選べます。でも、泣く理由は私が決めます! わたくしはもう、あなたたちの安い悲劇のためには泣かされない!」
痛快なまでの、完全な拒絶の宣言だった。
彼女の声を聞き、王宮の上層階から、わぁっという歓声のような響きが聞こえてきた。
王太子の弱さと、ヒロインの強さ。
二人の中心人物が自らの殻を破ったことで、ただの背景として扱われていた王宮の人々もまた、空中に浮かぶ強制台詞のプロンプトを自らの手で引き裂き始めていた。
パキィィィンッ!!
ひときわ高い破砕音が地下室に響き渡る。
契約核を縛っていた二本目の太い光の鎖が、粉々に砕け散り、光の粒子となって消滅した。
第二の契約錠、『可哀想なヒロイン役』の完全な破壊だ。
「やりましたわね、リリーナさん!」
「はい、依子様……っ。わたくし、やりました!」
リリーナさんが足から崩れ落ちそうになるのを、私がしっかりと抱き止めた。
ヴィルヘルムも剣を下ろし、安堵の息を吐きながら私たちを頼もしげに見つめている。
これで、契約核を守る光の鎖は、残り一本だけとなった。
《第二契約錠の破損を確認》
《最終防衛プロトコルへ移行します》
私の端末が、これまでにないほど甲高い警告音を鳴らし始めた。
契約核の水晶本体が赤黒く染まり、最後に残った一本の鎖が、凄まじい熱を放ちながら膨張していく。
《最終ターゲットをロック:『悪役令嬢役』》
《警告:本契約錠の破壊は、該当役体の論理崩壊を伴います》
「……え?」
端末に表示されたその一文に、私の思考が真っ白に停止した。
「おい、依子。どうした、画面に何と出ているんだ?」
ヴィルヘルムが私の顔色の変化に気づき、慌てて歩み寄ってくる。
私は反射的に端末の画面を隠そうとしたが、遅かった。
彼もまた、私の背後からその残酷なテキストを読んでしまったのだ。
「役体の……崩壊、だと?」
「……どういう、ことですか」
リリーナさんも青ざめた顔で私を見る。
私は震える唇を噛み締め、システムが提示した冷酷な事実を口にした。
「この悪役令嬢ヨリエルの身体は、会社が用意した仮の器です。殿下やリリーナさんのような実在の人間ではありません」
だからこそ、私がこの最後の鎖を自らの意思で破壊し、『悪役令嬢役』を完全に返上した場合。
この身体は世界との繋がりを失い、完全に消滅する。
「最後の錠を割れば、わたくしの役体は消え……わたくしの意識は、強制的に現代へと弾き出されます」
それはつまり。
この事件が解決し、アーデルハイト王国に平和が戻ったとしても。
私が、二度とこの世界へ出勤できなくなるということを意味していた。




