第34話 冷酷な王太子は、泣いてもいい
ギルベルト卿を安全な壁際に寝かせ、私たちは巨大な『契約核』と向き合った。
水晶を守る三本の光の鎖は、中心配役である私たちが、自分の役を理解した上で公に拒絶しなければ外れない。
その時、契約核がひときわ強く明滅し、王宮の上層から通じている換気用の魔導管を通じて、人々の悲鳴や怒号が地下室にまで響き渡ってきた。
『やめろ! 俺はこんなことを言いたいんじゃない!』
『助けて、身体が言うことをきかない……!』
システムによる強制的な世界修正。星名部長が引き起こした『強制台詞の空中表示』によって、空や壁に浮かんだ文字へ従う衝動に追い立てられ、判断を押し流されそうになった人々がパニックに陥っているのだ。
「……私の民が、システムという名の暴力に蹂躙されている」
ヴィルヘルムが、血の滲むような声で呟いた。
彼のこめかみには青筋が浮かび、全身が小刻みに震えている。
彼を縛る第一の光の鎖。それは『冷酷で完璧な王太子』という役割だ。
病床の父王に代わり、誰にも弱みを見せず、すべてを一人で背負い込んで冷徹に国を統治する。それが、彼に与えられた悲劇の舞台装置としての設定だった。彼自身もまた、その重圧に無意識のうちに縛られてきたのだ。
「殿下……」
「私は、間違っていた」
ヴィルヘルムは、広間の隅に設置されていた、有事の際に王宮全体へ声を届けるための『拡声魔導具』の前に歩み寄った。
そして、システムからの強烈な『修正圧』による頭痛に耐えながら、その起動スイッチを強く叩いた。
「アーデルハイトの民よ、そして臣下たちよ。……私の声が、聞こえるか」
魔導具を通じて、彼の低く震える声が王宮全体に響き渡る。
悲鳴と混乱が、その声の切実さに少しずつ静まっていく気配がした。
「空中に浮かぶ狂った命令文に、決して従うな。……私は、君たちが思っているような、完璧な次期国王ではない。冷酷にすべてを切り捨てるような、強い男ではないのだ」
ヴィルヘルムの告白に、私は息を呑んだ。
システムは今、彼に「弱音を吐くな」「冷酷な支配者であれ」と強烈な圧力をかけているはずだ。
だが彼は、その脳を焼くような痛みを真っ向から受け止めながら、己の心の最も脆い部分を公に晒し始めた。
「私はずっと、自分が弱さを見せれば国が崩れると恐れていた。だから誰にも頼らず、一人で完璧な王太子を演じようとしてきた。……だが、それはただの傲慢だった。私一人の力など、たかが知れている」
彼の言葉一つ一つが、偽りのない本音だった。
「痛い時は痛いと、恐ろしい時は恐ろしいと言っていいはずだ。今の私は、この理不尽な状況をひどく恐れている。……だから、どうかお願いだ。私に、君たちの力を貸してくれ!」
それは、王太子からの絶対的な命令ではなく、一人の人間としての悲痛な叫びだった。
完璧な王室の象徴であることをやめ、弱さを認めて他者に助けを求める。
会社が用意した『冷酷な王太子役』の、完全なる自己否定。
拡声魔導具の向こう側から、人々の声が聞こえてきた。
『殿下が、あんな悲痛な声を……』
『俺たちの王太子殿下を、一人にさせるな!』
『あんなふざけた文字の命令になんか、絶対に従うもんか!』
ヴィルヘルムの人間としての弱さと肉声が、修正衝動に呑まれかけていた人々の心に火を点けたのだ。
ただの背景として扱われていた王宮の人々が、自らの意思でシステムの強制表示に抗い、助け合いながら立ち上がる気配が、地下にまで確かに伝わってきた。
「……はぁっ、はぁっ……」
魔導具から手を離したヴィルヘルムが、限界を迎えたようにその場に崩れ落ちた。
私はすぐに駆け寄り、石の床に膝をついた彼の身体をしっかりと抱き止めた。
「殿下、よく頑張りましたね……。立派ですわ」
「……情けない。国中の人間の前で、泣き言を言ってしまった……」
ヴィルヘルムの氷青の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
ずっと気を張ってきた彼の、初めての涙。
私はその涙を指先でそっと拭い、優しく微笑んだ。
「情けなくなんてありません。一人で抱え込まず、誰かに助けを求められるのは、あなたが本当の意味で強くなった証拠です。冷酷な王太子なんかより、わたくしは今のあなたの方が、ずっと人間らしくて好きですわ」
「依子……」
彼が私の肩に顔を埋め、子どものように小さく肩を震わせる。
私はその背中を、愛おしさを込めて何度でも撫でた。
彼の流す涙は、弱さの記号なんかじゃない。軛を断ち切り、自らの心を取り戻した魂の証明だ。
パキィィィンッ!
その時、契約核を縛っていた三本の光の鎖のうち、最も太い一本が、甲高い音を立てて砕け散った。
ヴィルヘルムが自らの意思で役割を放棄し、民がそれに呼応したことで、第一の『契約錠』が完全に破壊されたのだ。
「……一つ目の錠が、壊れました」
私が立ち上がり、契約核を見据える。
鎖が一本消えたことで、水晶の放つ禍々しい光がわずかに弱まったように見えた。
「まだだ。あの忌々しい石には、あと二つの鎖が残っている」
ヴィルヘルムも立ち上がり、私の隣に並んで剣を構え直した。
彼の顔にはもう涙の痕はなく、守るべきものを見据えた、本物の王者の顔つきに戻っている。
《第一契約錠の破損を確認。システム防衛レベルを引き上げます》
《次期初期化ターゲットをロック:『可哀想なヒロイン役』》
私の端末が鋭い警告音を鳴らし、赤いテキストを空中に展開した。
契約核の表面に浮かび上がった残りの二本の鎖が、まるで怒り狂った生き物のように蠢き、今度はリリーナさんの方へその矛先を向ける。
「次は、私の番ですね」
リリーナさんが、一歩前へ進み出た。
彼女の顔には、ヒロイン特有の庇護を求めるような怯えは微塵もない。
第二の錠を壊すための、彼女自身の戦いが始まろうとしていた。




