第33話 監査官は、会社ではなく人を守る
王宮の地下最深部。冷たい石造りの通路に、鋭い剣戟の音が響き渡った。
ガキィィンッ!
火花が散り、ヴィルヘルムの剣が、漆黒の軍服を着た男の凶刃を間一髪で弾き返す。
「ギルベルト! 目を覚ませ!」
ヴィルヘルムの悲痛な叫びも、かつての忠実な側近の耳には届かない。
ギルベルトの瞳は焦点が合わず、虚ろな暗い色に沈んでいた。彼の首筋や腕には、不気味な赤い幾何学模様が浮かび上がり、脈打つように発光している。
彼の中にある役割契約が、目の前の扉の奥にある『契約核』の強大な力と共鳴し、本人の選択を押し潰すほどの衝動と身体硬直を与えているのだ。
「……標的、確認。排除、します」
機械音声のように抑揚のない声。
ギルベルトの身体が人間離れした速度で跳躍し、ヴィルヘルムの死角から鋭い突きを放つ。
ヴィルヘルムはそれを受け流すが、決して自分から反撃の刃を向けようとはしない。
「殿下、防戦一方では削り切られます! 彼を、気絶させるしか……!」
「できない! 彼はシステムに無理やり限界以上の力を引き出されている。ここで私が中途半端な一撃を入れれば、彼の肉体そのものが耐えきれずに壊れてしまう!」
ヴィルヘルムの言葉に、私は息を呑んだ。
星名部長は、初めからギルベルトの命などどうでもいいのだ。彼を使い捨ての防衛兵器として暴走させ、最悪の場合は王太子と相打ちになればそれでいいと計算している。
「そんなこと、絶対にさせません……っ!」
私は空中に業務端末を展開し、ギルベルトの監査記録から【監査対象者保護・異常命令停止申請】を呼び出した。
現在の殺害命令と身体負荷を緊急案件として添付し、停止申請を送る。キーボードを叩く指が震えた。
画面上には、幾重にも重なった真っ赤な応答が返る。
『管理者承認待ち』『緊急停止拒否』『オーバーライド:殺害命令実行中』。
「ギルベルト卿! 聞こえていますか!」
私はキーを叩きながら、剣を振るう彼に向かって叫んだ。
声が震えないように、丹田に力を込める。神田のオフィスで、理不尽な要求を突きつけてくるクレーマーに毅然と立ち向かう時のように。
「あなたは異世界人材バンクの監査官です! 会社の用意した評価表は、もうあなたが自分の手で破り捨てたではありませんか!」
「……排除、排除……」
「システムの命令書なんかより、あなた自身の職務を思い出しなさい! あなたは、会社を守るために剣を握ったのですか! それとも、この国の人々を守るために握ったのですか!」
私の叫びが地下通路に反響した。
その直後、ギルベルトの動きが、ほんのコンマ数秒だけピタリと止まった。
「……がっ、あ……ぁぁぁぁっ!」
虚ろだった彼の目に、激しい苦痛の色が戻る。
首筋の赤い文様が明滅し、彼の右腕がギリギリと不自然な角度で悲鳴を上げた。
彼自身の強靭な意思が、システムという見えない鎖を内側から引きちぎろうと足掻いているのだ。
「ギルベルト……!」
「く、来るな……っ、殿下! 私から、離れて……!」
ギルベルトは血を吐くような声で叫んだ。
しかし、システムの強制力は無慈悲だった。彼の右手が再び高く振り上げられ、ヴィルヘルムの首元へ向けて、防ぐことのできない必殺の一撃が振り下ろされようとする。
「これまでだ、ギルベルト」
ヴィルヘルムが、静かに剣を構えた。
友を斬る覚悟を決めた、王の顔だった。
だが。
「――私の、職務は」
ギルベルトの喉の奥から、獣のような咆哮が轟いた。
彼が振り下ろした白刃は、ヴィルヘルムの首を捉えなかった。
強靭な意思で自らの肉体を限界まで捻り、剣の軌道を強引に捻じ曲げたのだ。
刃が向かった先は、ヴィルヘルムではなく。
ドガァァァンッ!!
「……えっ」
凄まじい轟音が響き、粉塵が舞い上がった。
ギルベルトの放った渾身の一撃は、契約核を護る重厚な金属の扉の中央――厳重に施錠されていた魔力錠の中心に深々と突き刺さっていた。
「私は、会社ではなく……人を、守る……!」
ギルベルトが柄から手を離すと同時に、扉のロック機構が完全に砕け散った。
役目を終えたように、彼の首筋の発光が消える。
糸の切れた操り人形のように崩れ落ちそうになった彼の身体を、ヴィルヘルムが慌てて抱き止めた。
「ギルベルト! おい、しっかりしろ!」
「……申し訳、ありません。少し、働きすぎた……ようです」
ギルベルトは皮肉めいた笑みをわずかに浮かべ、そのまま静かに意識を手放した。
胸の上下はしている。命に別状はない。
彼は、己の命を懸けてシステムの支配に打ち勝ち、私たちに最後の道を切り開いてくれたのだ。
「ありがとう、ギルベルト。……立派な監査官だ」
ヴィルヘルムが彼を静かに壁際に寝かせる。
私も深く一礼し、ギルベルト卿の無事を祈った。
そして、私たちは開かれた重厚な扉の隙間から、その奥の空間へと足を踏み入れた。
「これが……」
「ああ。すべての元凶だな」
広大な地下室の中央。
そこには、大人の背丈の三倍はあろうかという巨大な青白い水晶が、心臓のように不気味な脈動を繰り返して鎮座していた。
『契約核』。
この世界の悲劇の台本を管理し、すべての人間の運命を狂わせてきたサーバーの物理的本体。
ヴィルヘルムが無言で剣を上段に構え、その巨大な水晶に向かって鋭い一撃を振り下ろした。
カキィィンッ!!
だが、剣の刃は水晶に届く前に、空中に張られた目に見えない硬質な壁に弾き返された。
「……物理的な攻撃を、受け付けないだと?」
「殿下、待ってください! 端末に警告が……っ!」
私の手元で、業務端末がけたたましいアラートを鳴らし始めた。
画面に表示された解析結果を見て、私は血の気が引くのを感じた。
《契約核の防衛プロトコルを解析。対象を保護する三つの『契約錠(光の鎖)』を確認しました》
《解除条件:中心配役の三名が、自己の役割を完全に認識し、自発的かつ公的にこれを破棄すること》
《補足:個別シーンの拒否だけでは解除できません。契約核の最終修正下で、役割定義の全体を破棄する必要があります》
作戦会議で確認した停止条件は、役の拒絶、王国同意の撤回、運営免許の停止という三層だった。
目の前の三本の契約錠は、そのうち第一層――中心配役三名の役割拒絶を、一人につき一本の鎖として可視化したものだ。王国同意の撤回はすでに成立している。残る会社側の運営免許停止とは、別に満たさなければならない。
契約核の表面に、太い光の鎖が三本、幾重にも巻き付いているのが視覚化される。
それは、私たちが背負わされた『役割』そのものだった。
「つまり、わたくしたち三人が、それぞれの『役』を完全に拒絶しなければ、この水晶は傷一つつかないということですわ」
物理的な破壊力ではなく、システムが定義した『役割』を自ら降りること。
それが、この契約核を停止させるための絶対条件だったのだ。
その時、地下室の天井を揺るがすほどの地響きが鳴った。
王宮の上層階から、魔導管を通じて人々のパニックに陥った悲鳴が聞こえてくる。
星名部長の世界修正による『強制台詞の空中表示』によって、王宮中の人々がパニックになり、互いを傷つけ合いそうになっているのだ。
「……私の民が、システムという名の暴力に蹂躙されている」
ヴィルヘルムが、血の滲むような声で呟いた。
私たちに残された時間は、もうない。
冷酷な王太子、可哀想なヒロイン、そして悪役令嬢。
誰かに押し付けられた役割を返上するための、本当の戦いが幕を開けようとしていた。




