第32話 聖女役の先輩は、救えなかった名前を覚えている
秋葉原の雑居ビル地下三階、異世界人材バンク・転送待合室。
普段はスタッフたちの乾いた愚痴とタイムカードの打刻音だけが響くその場所で、ミサキは冷や汗を流しながらノートパソコンのキーボードを激しく叩き続けていた。
画面の中央には、境界庁・異界交流監理室への緊急通信のプログレスバーが表示されている。
その横で無慈悲にカウントダウンを刻むのは、星名部長の防衛プログラムが回線を完全に切断するまでの残り時間。
残り、六十秒。
「頼む、通れ……っ。こんなところで弾かれたら、ヨリちゃんたちが全滅すんじゃんか!」
ミサキは悲鳴のような声を上げながら、依子から送られてきた三十日分の業務報告書とシステムログを、暗号化された回線へと押し込んでいく。
そのフォルダの隣に、ミサキはもう一つの重たいファイルをドラッグ&ドロップした。
ファイル名には『過去案件・犠牲者名簿』とだけ記されている。
――それは、ミサキ自身の消えない傷跡だった。
三年前。ミサキが『悲劇の聖女』としてある異世界に派遣された時のことだ。
台本は、魔物の襲撃を受けた村を聖女が見捨て、後から現れる勇者の悲壮感を際立たせるという残酷なものだった。
炎に包まれる村。瓦礫の下から、血まみれになった幼い少年がミサキに向かって手を伸ばした。
『助けて、聖女さま』
その声に、ミサキが駆け寄ろうとした瞬間。システムからの強烈な修正圧が彼女の身体を硬直させ、足元に星名の声が響いた。
『ミサキさん、台本から逸脱しないでください。彼らはただのNPC(現地資産)です。削除イベントにすぎません』
ミサキは痛みに耐えきれず、少年の手を振り払って背を向けた。
システムはそれをデータ上の処理と呼んだが、すがりついてきた少年の手の温もりと、彼が流した血の匂いは、紛れもない『本物』だった。
(あの時からずっと、アタシの心はぶっ壊れたままだ)
自分に「これはゲームだ」と言い聞かせ、ギャル風の軽口で本心を隠し、会社に言われるがままに働き続けてきた。
だが、見殺しにしてしまった人々の名前と顔を、ミサキは一日たりとも忘れたことはなかった。
彼女は秘密裏にシステムのログを漁り、台本の犠牲となった現地住民たちの名前を拾い集め、この名簿を作り上げた。
いつか、この狂った会社を終わらせてくれる誰かが現れた時のために。
「ヨリちゃん。あんたは、アタシが諦めたことを全部やってくれた」
残り、二十秒。
ミサキはエンターキーに指を置き、深く息を吸い込んだ。
「これ以上、アタシと同じ後悔を誰かにさせない。……行けぇっ!!」
ターンッ、とキーボードが壊れんばかりの力で叩き込まれた。
画面のプログレスバーが一気に右端まで到達し、緑色の光が弾ける。
残り時間、三秒。
《境界庁・異界交流監理室:データを受信完了》
《内容を確認。違法性の疑いを認め、仮監査回線を開放します》
「よっしゃあ!」
ミサキは両手を突き上げ、パソコンの前でガッツポーズをした。
境界庁という絶対的な外部の目が、ついにこの違法な地下事業に向けられたのだ。
だが、喜んだのも束の間。画面に表示された次のテキストに、ミサキの表情が凍りついた。
《通報者へ通達。提出されたログおよび名簿から、重大な違法行為の可能性を確認しました。
しかし、御堂人材サービスへの強制捜査および運営免許の停止命令を下すには、証拠として改ざん前の『原契約』の提出が不可欠です。現地の同意がないことを証明する原本がなければ、法的手続きへ移行できません》
「は……? ちょっと待ってよ。ここまで証拠揃えてんのに、原本がないとダメって……お役所仕事すぎない!?」
ミサキは頭を抱えた。
原契約の原本など、星名部長か御堂支店長クラスの幹部しかアクセスできない厳重な金庫の中だ。
派遣社員であるミサキには、逆立ちしても手に入らない代物だった。
(ここまで来て、どうすりゃいいの……っ!)
ミサキの絶望は、仮監査回線を通じて、異世界の地下にいる依子の業務端末にもテキストとして転送されていった。
* * *
《ミサキ:ヨリちゃん、ごめん! 回線は開いたけど、原契約がないと停止命令が出せないって!》
薄暗い地下通路を走りながら、私は手元の業務端末に表示されたミサキさんからのメッセージを読み上げた。
「……原契約。この世界の人々が、悲劇に同意などしていないという決定的な証拠の書類ですね」
リリーナさんが走りながら息を切らして言う。
ヴィルヘルムも険しい顔で前を見据えた。
「現実の会社側にある証拠なら、私たちにはどうすることもできない。だが、ミサキという先輩が仮の回線を開いてくれたのなら、まだ望みはある」
「はい。謝らないでください、ミサキ先輩。これで十分ですわ」
私は端末に向かって小さく呟いた。
境界庁の回線が開いたということは、これ以降、星名部長たちがシステム上でどんな隠蔽工作を行おうと、すべて外部に記録が残る状態になったということだ。
あとは私たちが、目の前の『契約核』をどうにかするだけ。
「見えたぞ、あれだ」
ヴィルヘルムの声に、私たちは足を止めた。
宰相専用区画の最深部。先ほど私が外側の扉のロックを解除して辿り着いたその空間の奥に、さらに厳重な金属の扉が存在していた。
扉の中央には、赤黒く脈打つ禍々しい水晶のようなものが埋め込まれている。
あれが『契約核』だ。
この世界の強制力の大元であり、星名部長が悲劇のシナリオをコントロールするための心臓部。
「あの水晶を破壊すれば……!」
ヴィルヘルムが剣を構え、扉に向かって踏み出そうとした。
しかし、その前に、漆黒の軍服を着た人影が立ち塞がった。
「……殿下、そこから先へは、行かせません」
虚ろな目をしたギルベルトだった。
彼は再び、意思を押し流すほど強烈な修正衝動に縛られ、手にした白刃をヴィルヘルムへと向けている。
「ギルベルト! まだ修正圧に縛られているのか!」
ヴィルヘルムの悲痛な声にも、ギルベルトの表情は動かない。
契約核に近づいたことで、システムからの強制力が極限まで高まっているのだ。
『忠実な護衛役』という彼の本質を捻じ曲げた、絶対的な『殺害命令』。
扉を開け、契約核を破壊するためには、彼を斬り伏せて進むしかないのか。
絶望的な選択を迫られ、私たちは固く閉ざされた最後の扉の前で、息を呑んで立ち尽くした。




