第30話 悪役令嬢は、台本の運営会社を告発します
色が反転し、時間が停止した玉座の間。
空中で静止したシャンデリアの光も、床にねじ伏せられたまま声を上げることもできないグランツ宰相も、すべてがモノクロームの静止画のように固まっていた。
この空間で動けるのは、会社の端末を通じて再接続している私と、そして。
「……依子。これは、どういうことだ」
ヴィルヘルムの声だった。
彼は私に伸ばしかけていた手の中空で、信じられないものを見るように周囲を見渡している。
システムの強制介入による『時間の停止』。それは、役割契約を持つ人間には認識できないはずの現象だ。
「殿下、動けるのですか!?」
「ああ。だが、身体がひどく重い……水の中を歩いているようだ」
ヴィルヘルムが眉をひそめながら、私の隣へと歩み寄る。
そうか、と私は合点がいった。
彼は先ほど、システムが課した最大の決定台詞を己の意思で完全に破壊したのだ。その強烈な抵抗により、一時的に彼を縛る契約の鎖が緩み、このメタ的な異常空間を認識できるようになったのだ。
『……本当に、忌々しいイレギュラーですね。日下部依子さん』
玉座の間のどこからともなく、星名部長の氷のように冷たい声が響いた。
ホログラムのように、虚空に彼女の姿が投影される。
黒縁眼鏡の奥の瞳は、怒りではなく、ただひたすらに『損益を割り込んだ不良品』を見るような無機質な色を帯びていた。
『対象の王太子も、契約の強制力から一部逸脱しているようですね。ですが、無駄なことです。物語の進行が不可能と判断された以上、このセッションはすべて初期化し、あなたというエラー要因を排除した上で、新たな配役で初日からやり直します』
「……やり直す、だと?」
ヴィルヘルムが、星名のホログラムを鋭く睨みつけた。
「貴様が、依子を不当に縛り付けていたという『会社』の人間か。我々の世界を初期化する権限など、誰が与えた」
『権限? 私たちは正当な対価を払い、この世界の管理者であるグランツ宰相から、あなた方という『現地資産』を買い取ったのですよ。商品であるあなた方に、決定権はありません』
星名は冷淡に言い放ち、手元のタブレットを操作した。
《世界修正プロトコル、起動準備。対象の記憶と事象の初期化まで、残り六十秒》
《実行条件:主シナリオの重大破綻/契約核の正常稼働/因果結晶残量・規定値以上》
《制約:対象者の心情および最終的な意思決定は改変できません》
《警告:実行履歴は境界監査層へ不可逆記録されます》
ようやく、星名部長が最初からこの手段を使わなかった理由がわかった。
世界修正は、主シナリオが崩れた後にしか起動できず、正常な契約核と大量の因果結晶を必要とする。そのうえ、使えば外部監査で隠せない傷跡が残る。心まで書き換えられる万能の力ではなく、事業の発覚を覚悟して切る最後の非常手段なのだ。
空間がさらに歪み、ヴィルヘルムの姿がノイズにまみれて明滅し始めた。
彼は苦痛に顔を歪めながらも、決して私を守るように前に立つ姿勢を崩さない。
「依子、これがお前の言っていた……世界の書き換えか。……負けるな、私は、絶対に君を忘れない」
「殿下……」
彼がこれほどまでに私を信じ、抗ってくれているのだ。
私がここで引き下がるわけにはいかない。
私は業務端末の業務報告・監査申告画面を空中に展開した。
「星名部長。あなたがたのやっていることは、合法的な派遣事業ではありませんわ」
私は震える指先をキーボードに叩きつけながら、はっきりと声を上げた。
「わたくしは、このアーデルハイト王国という『実在する世界』の、一人の人間としてあなた方を告発します。あなた方は、現地住民を『NPC』や『高精度シミュレーション』と偽り、違法な悲劇を商品として利益を貪っている!」
『……証拠もないのに、妄言を吐くのはやめなさい』
星名の声に、わずかに苛立ちが混じる。
「証拠なら、わたくしが初日からすべて記録しておりますわ!」
私は業務報告書のフォーマットを画面に呼び出し、そこに添付された大量のログデータを公開した。
「初日の業務指示書。『対象は現地住民です』という警告ログ。それと矛盾する、あなた方がスタッフに配布した『対象はNPCである』という説明資料! さらに、同意なき役割契約の付与による、修正圧という名の物理的暴力の記録!」
私が突きつけたのは、魔法の力でもチート能力でもない。
現代の事務員として、理不尽な指示を受けるたびに『証拠保全』のために残し続けてきた、三十日分の業務報告書と保存メールの束だった。
「これらの記録はすでに、わたくしが外部のサーバー……いえ、ミサキ先輩を通じて、境界庁の監査回線に向けて送信準備を終えています。わたくしを初期化すれば、このログが自動的に境界庁へ送信される手はずになっていますわ」
それはハッタリだった。
ギルベルトから受け取った緊急用の物理キーは、旧礼拝堂などの特定のポイントからでなければ、安定した通信を確立できない。今この場で送信することは不可能なのだ。
だが、クレーム対応において、相手が「どこまで証拠を握っているか」を錯覚させるのは常套手段だ。
星名のホログラムが、一瞬だけ沈黙した。
彼女はタブレットの画面を素早く操作し、私のハッタリの真偽を確かめようとしている。
そのわずかな隙が、私たちが動くための最大のチャンスだった。
「……殿下、今です!」
私が叫ぶと同時。
ヴィルヘルムは、私が大量の証拠を監査申告欄へ一括登録し、検証処理で一時的にシステムの防壁が薄くなった一点――星名のホログラムの投影元である、空中のデータリンクの結節点に向かって、自らの腰から抜いた剣を全力で投擲した。
「……私の意思は、私が決める!!」
王太子の咆哮と共に放たれた白刃が、空間の歪みに深々と突き刺さる。
バギィィィンッ!!
ガラスが砕け散るような轟音と共に、星名のホログラムがノイズにまみれて崩壊していく。
『……っ! 一時的な通信の切断……ですが、契約核が破壊されない限り、いずれ修正は実行されますよ、日下部依子……!』
星名の忌々しげな声が空間に溶けて消えると同時に。
反転していた色彩が元に戻り、停止していた時間が一気に動き出した。
「うおぉっ!?」
「な、何が起きたのだ!?」
時間が停止していた間の記憶を持たない貴族たちが、突然空中に突き刺さった王太子の剣を見て、パニックに陥って悲鳴を上げている。
玉座の間は、完全な混沌に包まれていた。
「……やったな、依子」
息を切らしたヴィルヘルムが、私の肩を抱いて支えてくれた。
彼の額には大粒の汗が浮かんでいるが、その青い瞳は勝利の確信に輝いていた。
「はい。ですが、星名部長の言う通り、これで終わったわけではありませんわ」
私は空中に展開した端末の画面を睨みつけた。
そこには、新たなシステムメッセージが表示されていた。
《世界修正を再スケジュール中》
《日下部依子を、最優先の回収・記憶消去対象に指定します》
「彼女たちは、王宮の地下にある『契約核』を使って、世界を丸ごと書き換えるつもりです。……それを壊さなければ、私たちの本当の定時退社は訪れません」
私はヴィルヘルムを見上げた。
彼もまた、力強く頷く。
「行こう、依子。私たちの未来を取り戻すために」
私たちは、どよめく玉座の間を抜け出し、王宮の地下へと通じる隠し通路へと走り出した。
物語は、会社が用意した台本を完全に外れ、私たち自身の足で切り開く最終章へと突入しようとしていた。




