第29話 婚約破棄の台詞は、殿下が削除しました
『ヨリエルとの婚約を破棄する』
空中に浮かぶその無機質な文字列は、ヴィルヘルムの脳と身体へ押しつけられた強烈な誘導だった。
彼の額から大粒の汗が滑り落ち、硬く握りしめた拳が微かに震えているのがわかる。
役割契約の強制力――システムが指定した『決定台詞』を口にしなければ、彼の脳髄をかき回すような激痛は終わらない。
「さあ、殿下。皆がお言葉をお待ちしておりますぞ」
グランツ宰相が、勝利を確信したような薄ら笑いを浮かべて急かした。
周囲の貴族たちも、悪役令嬢である私が無様に捨てられる瞬間を期待して、息を潜めて玉座を見上げている。
痛みに屈して、台詞を読んでしまえばどれほど楽だろうか。
でも、彼は絶対にそうしないと、私は知っていた。
「……私の言葉を、待っていると言ったな、宰相」
ヴィルヘルムが、ゆっくりと顔を上げた。
その青い瞳には、システムがもたらす激痛を凌駕するほどの、強烈な意思と王太子としての威厳が宿っていた。
「ならば、はっきりと宣言しよう。私、ヴィルヘルム・アーデルハイトは――ヨリエル・フォン・ローゼンベルクとの婚約を、破棄するつもりは一切ない」
玉座の間に、どよめきが爆発した。
空中に浮かんでいた強制台詞の文字列が、バチィッ!という音と共にガラスのように砕け散る。
ヴィルヘルムは、自らの強い意思と行動によって、システムが用意した最も重要な決定台詞を完全に削除してのけたのだ。
「なっ……で、殿下!? ご自分が何を仰っているのかおわかりですか!」
宰相の顔から余裕の笑みが剥がれ落ちた。
「この女は、リリーナ男爵令嬢に危害を加えようとした大罪人ですぞ! それを庇うなど、王国の法と秩序に対する裏切り――」
「法と秩序に対する裏切り者は、貴様の方だ、グランツ宰相」
広間の重厚な扉が大きく開け放たれた。
そこに立っていたのは、西塔の地下牢に拘束されていたはずのリリーナと、彼女を救出した護衛騎士ギルベルトだった。
「リリーナさん! ギルベルト卿!」
私が歓喜の声を上げる中、二人は真っ直ぐに玉座の前へと進み出た。
リリーナは乱れたドレスのまま、しかし一切の怯えを見せずに宰相を睨みつけた。
「皆さま、どうか聞いてください。私はヨリエル様から暴行など受けておりません。むしろ、私を脅迫し、偽りの被害を証言するよう強要していたのは、そこのグランツ宰相です!」
「戯言を! 誰か、その錯乱した小娘を黙らせろ!」
「錯乱などしていません。宰相は私の家族が抱えた借金を盾に取り、私を王太子殿下へ近づくための駒として利用しようとしたのです。その証拠も、すべてここにあります!」
ギルベルトが、黒い革張りの分厚い手帳――宰相府の隠し金庫から奪い取った『裏帳簿』を高く掲げた。
反対の手には、灰色に焼けた小さな魔石が握られている。私が渡した保守用波長は役目を終えたが、金庫を一度だけ開くことには成功したのだ。
「この帳簿には、ベルティエ男爵家の債権の不正な買い取り記録だけでなく、先日の狩猟祭において、殿下を狙った暗殺者への報酬の支払い記録が記されている!」
ギルベルトの通る声が響き渡り、貴族たちの間に決定的な動揺が走った。
宰相の顔面が蒼白に染まり、わななきながら後退る。
「帳簿の末尾には、殿下の処刑後の計画もあります」
リリーナが、印を付けたページを開いた。
「まだ幼い第二王子を即位させ、グランツ宰相が摂政として国政を掌握する。そのために、王太子殿下を反逆者へ仕立てると記されています」
広間の空気が凍りついた。
王位を望んだのは幼い第二王子ではない。彼の名と立場まで、宰相が自分の権力のために利用しようとしていたのだ。
「さらに、決定的な証拠がある」
ヴィルヘルムが、懐から一枚の公文書を取り出した。
それは、彼が以前私に見せてくれた、私の偽の戸籍と婚約記録の写しだった。
「この文書には王家の印が押されているが、父上がこのような書類に署名した記録はない。貴様は病床の父上に代わり実務を担う権限を悪用し、王家の印を偽造……あるいは不当に持ち出し、自らの私兵を動かすための命令書を捏造していたな」
「ち、違う! それは陰謀だ、私を陥れるための――」
「見苦しいぞ、ベルトラム・グランツ」
ヴィルヘルムの冷徹な宣告が、玉座の間を支配した。
「王国記録院の書記官たちよ、今から述べる言葉を一字一句、国の記録へ残せ。私、王太子ヴィルヘルム・アーデルハイトは、グランツが偽造した異世界人材バンクへの運営同意を無効と認定する。王家および王国の名で登録された一切の承諾を、ここに正式に撤回する」
壁際に控えていた書記官たちの羽ペンが、一斉に走った。
役割契約を止める三つの条件。その第二段階が、国の公的記録と共に成立した。
「貴様を、国家反逆および王室への暗殺教唆の罪で拘束する」
ギルベルトと数名の近衛騎士が素早く動き、宰相とその私兵たちをあっという間に武装解除して床にねじ伏せた。
「離せ! 私を誰だと……!」と叫ぶ宰相の胸元から、あの分厚い銀の懐中時計が転がり落ちる。
(終わった……)
私はその光景を見下ろし、深く息を吐き出した。
王太子処刑とヒロイン病死への決定的な引き金となるはずだった断罪式は、今、私たちの手によって完璧に反転したのだ。
リリーナの勇気、ギルベルトの離反、そしてヴィルヘルムの意思。
誰一人欠けても成し得なかった、完全なる勝利。
「依子」
ヴィルヘルムが、私に向かって手を差し出した。
公の場であるため、さすがに抱きしめられることはなかったが、その青い瞳には私への深い労いと信頼が込められていた。
私も微笑み返し、彼の手を取ろうとした。
その瞬間。
ブツンッ、と。
広間の全ての色彩が、唐突に反転した。
「……え?」
私の手が、ヴィルヘルムの手に触れる直前で止まる。
いや、私だけではない。
拘束されて叫んでいた宰相も、剣を構えたギルベルトも、周囲でどよめいていた貴族たちも。
空間に存在するすべての人間が、まるで一時停止ボタンを押された映像のように、ピタリと動きを止めて凍りついていた。
『……本当に、忌々しいイレギュラーですね』
どこからともなく、無機質で冷たい女性の声が玉座の間に響き渡った。
空間そのものから発せられるようなその声の主を、私は知っている。
「星名、部長……」
色が反転し、時間が停止した世界の中で、唯一私だけが意識と声を保っていた。
私の業務端末が空中にポップアップし、毒々しい赤色で一つのシステムメッセージを表示する。
《重大なシナリオの破綻を確認。これより、全シーンを初期化します》
「初期化……?」
背筋に氷を突き立てられたような悪寒が走った。
宰相を失脚させ、現地の脅威を排除したというのに。
会社という絶対的な管理者は、自分たちの利益にならないこの結末を認めず、盤面そのものを無理やりひっくり返そうとしてきたのだ。
私たちの勝ち取った勝利が、システムという巨大な理不尽の前に、今まさに消し飛ばされようとしていた。




