第27話 台本のない場所でも、あなたを好きです
王宮の北側に位置する、旧礼拝堂。
長年使われていないその場所は、分厚い石造りの壁と色褪せたステンドグラスに囲まれ、ひんやりとした静寂に満ちていた。
「……ここなら、本当にシステムの干渉を受けないようですね」
私は業務端末を空中に呼び出し、通信状況を確認した。
画面の隅にあるアンテナマークには斜線が引かれ、『圏外』の赤い文字が点滅している。
ギルベルトから受け取った緊急用の物理キー(魔石)を使わなければ、会社側のシステムとは一切のデータのやり取りができない、完全な『死角』だった。
「これで、不自然な衝動を増幅されたり、記憶を奪われたりする心配はないということだな」
ヴィルヘルムが、ステンドグラスから差し込む淡い光の中で静かに言った。
彼の表情には、先ほどまでの激しい頭痛の痕跡はなく、本来の王太子としての落ち着きと威厳が戻っている。
ここには、私たちを縛る『役割契約』の強制力も、悲劇を盛り上げるための不自然な感情の増幅も存在しない。
ただ、私と彼という、二人の人間の素の意思だけがある空間だ。
「……殿下。ここは安全ですわ。ギルベルト卿が目覚めるまで、少しここで休んで――」
「依子」
ヴィルヘルムが、私の本名を呼んで真っ直ぐに歩み寄ってきた。
彼の足音が石畳に響き、私の目の前で止まる。
「以前、君に私の気持ちを伝えた時、君は『この感情がシステムに作られたものかもしれない』と言って、答えを保留したな」
「……はい」
「そして、すべての契約から解放された時、もう一度君に伝えると、私は約束した」
ヴィルヘルムの青い瞳が、逃げ場のないほど真剣な熱を帯びて私を射抜いた。
「ここは、システムが及ばない場所だ。誰の強制力もない、私自身の意思だけが存在する空間。……だから、今ここで、改めて君に伝えたい」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
息が止まりそうになる。
彼は私の手を取ることも、距離を詰めることもせず、ただ言葉だけで、私の心の最も深い場所をノックしてきた。
「私は君を愛している。冷酷な王太子という役割を脱ぎ捨てた、一人の男として……君という人間が、たまらなく愛おしい」
それは、甘い言葉で着飾ったものではない、彼自身の内側から出た、ひどく不器用で誠実な告白だった。
「私の命を救い、定時を守り、記憶を失った私を記録で繋ぎ止めてくれた。君のその冷徹なまでの現実主義と、不器用な優しさに、私は惹かれたのだ」
「殿下……」
「この感情は、誰に作られたものでもない。私自身のものだ」
ヴィルヘルムの言葉が、旧礼拝堂の静寂の中に吸い込まれていく。
私の業務端末は圏外のままだ。
『好感度』の数値も、『自発的関心』のシステム判定も、ここには何もない。
あるのは、彼の言葉と、それを受け取る私の心だけ。
(ああ……)
ずっと恐れていた。
彼の優しい言葉や、気遣いが、すべて『悲劇の結末を盛り上げるためのプログラム』だったらどうしようと。
でも、そんな疑念は、彼がここでもう一度、同じ言葉を紡いでくれた瞬間に、完全に消え去った。
彼の好意は、システムが作ったものではない。
記憶を失っても、強制力がなくても、彼は必ず『私』を見つけ出し、同じ結論に至ってくれるのだ。
「……わたくしは、ただの派遣社員ですわ」
私は震える声で、必死に言葉を紡いだ。
「王太子の隣に立てるような、立派な令嬢ではありません。契約書の読み方と、メールの保存方法しか知らない、現代の……ただの、事務員です」
「知っている」
「時給のために、あなたを騙して悪役令嬢を演じていました。……性格だって、可愛げがないし、理屈っぽいし」
「それも知っている」
ヴィルヘルムは、フッと柔らかく微笑んだ。
「その上で、君がいいと言っている。君でなければ、駄目なんだ」
彼の言葉に、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
役割ではなく、私自身のすべてを肯定された気がした。
「……わたくしも」
私は両手で顔を覆いながら、しゃくり上げるように言った。
「わたくしも……あなたが好きです。台本のない場所でも、あなたが……大好きです……っ」
その瞬間、ヴィルヘルムがゆっくりと手を伸ばし、私の身体をそっと抱き寄せた。
これまでのような、暗殺者の矢から守るためや、強制回収から引き留めるための、緊急避難的な抱擁ではない。
互いの意思を確認し合い、ただ愛おしさを確かめるための、静かで優しい抱擁だった。
「ありがとう、依子。……君のその言葉が聞きたかった」
ヴィルヘルムの大きな手が、私の背中を優しく撫でる。
軍服越しの硬い胸板に顔を埋めながら、私は彼の温もりを全身で感じていた。
そして、彼が少しだけ身体を離し、私の顔を覗き込んだ。
その青い瞳が、私だけに向けられた特別な熱を帯びて、ひどく甘く揺れている。
「……口づけを、してもいいか?」
彼の問いかけに、私は涙で濡れた顔のまま、小さく頷いた。
ヴィルヘルムの顔が近づき、彼の唇が、私の唇にそっと重なった。
不器用で、触れるだけの、羽のように軽いキス。
でも、そこには確かな熱があり、私の心の奥底まで満たしていくような、深い安心感があった。
これが、私たちの初めてのキス。
システムにも、会社にも、誰にも覗き見られることのない、二人だけの本物の誓いだった。
どれくらいそうしていただろうか。
遠くから、礼拝堂の静寂を破るような、騒々しい足音が聞こえてきた。
「殿下! 殿下、ご無事ですか!」
扉を乱暴に開けて飛び込んできたのは、息を切らしたギルベルトだった。
彼の顔には、先ほどまでの苦痛の表情はなく、代わりに切羽詰まったような焦燥感が浮かんでいる。
「ギルベルト。無事だったか」
「はい。殺害命令の強制力は、この礼拝堂に近づくにつれて弱まり、今は完全に消え失せています。……ですが、殿下、一大事です」
ギルベルトは膝をつく暇も惜しむように、ヴィルヘルムに向かって早口で告げた。
「グランツ宰相が、動き出しました」
「なんだと?」
「リリーナ嬢を王家侮辱罪で拘束した件を大義名分とし、近衛隊の指揮権を掌握。さらに……殿下の王位継承権を剥奪するための『公開審問(断罪式)』を、当初の予定から前倒しし……」
ギルベルトはゴクリと唾を飲み込み、致命的な事実を突きつけた。
「明日の朝、開催することを宣言しました」
「……っ!」
私は息を呑んだ。
明日の朝。
それは、私たちが準備していたカウンターの猶予が、完全に奪われたことを意味していた。
会社のタイムスケジュールすら無視した、宰相の独断による暴走。
『悲劇の結末』へのカウントダウンが、一気に加速しようとしていた。




