第26話 王太子の頭痛を、証拠に変えます
「逃げろ、殿下……! 私の『忠実な護衛役』の契約が……反逆者の殺害命令に、すり替えられ……っ!」
血を吐くような絶叫と共に、ギルベルトの振り上げた白刃がヴィルヘルムへと襲いかかった。
私は悲鳴を上げかけたが、次の瞬間、ガキィィンッ!という甲高い金属音が隠し部屋に響き渡った。
剣は、ヴィルヘルムの首を捉えなかった。
ギルベルトが己の右腕を左手で強引に抑え込み、剣の軌道を無理やり逸らして、硬い石の床に刃を叩きつけたのだ。
「私は……アーデルハイトの騎士だ……! 誰かの書いた台本で、主君を殺すなど……!」
ギリッと奥歯が砕けそうなほど食い縛り、ギルベルトは全身から脂汗を吹き出している。
役割契約の強制力と、彼自身の強靭な意思が、一つの身体の中で激しく衝突しているのだ。
やがて、強烈な『修正圧』の負荷に耐えきれず、ギルベルトは白目を剥いてその場に崩れ落ち、完全に意識を手放した。
「……見事な忠義だ、ギルベルト」
ヴィルヘルムは床に倒れた側近を見下ろし、静かに、だが深い敬意を込めて呟いた。
彼はすぐに部屋の隅にあったロープを持ち出し、ギルベルトの身体を長椅子に縛り付けた。意識が戻った時に再び殺害衝動へ引きずられた場合の、安全確保のためだ。
その拘束を終えた直後。
「……っ、ぐ……」
ヴィルヘルムが突如としてよろめき、近くのテーブルに手をついた。
「殿下!?」
私が駆け寄ると、彼は片手で顔を覆い、荒い息を吐いていた。
彼の額にも、ギルベルトと同じように冷や汗が浮かんでいる。
「問題ない……。少し、頭が割れるように痛むだけだ。ギルベルトの離反や台本の崩壊による、システムからの全体的な修正圧の余波だろう」
「問題ないわけがありません! ソファに横になってください」
私は半ば強引に彼の腕を引き、もう一つの長椅子に座らせた。
冷たい水で濡らした布を彼の額に当てながら、私はギリッと唇を噛んだ。
システムは、思い通りにならないキャラクターたちに、容赦なく物理的な罰を与え続けている。
「……情けないな」
目を閉じたまま、ヴィルヘルムが自嘲するように呟いた。
「次期国王として、いかなる時も完璧でなければならないのに。見えない台本の力に抗うだけで、こうも簡単に膝をついてしまう。自分の意思すら、いつ失われるかわからない恐怖に……私は、怯えている」
それは、彼が初めて口にした『本音』だった。
冷酷な王太子という役割の裏で、彼は誰にも頼れず、自分の心が壊れていく恐怖とずっと戦っていたのだ。
「……殿下。あなたは、ご自分が弱いから頭痛が起きているのだと、そう思っていませんか?」
「違うのか? 現に私は今、立ち上がることすら……」
「違いますわ。これは呪いでも、あなたの精神力の問題でもありません。ただの『物理的なシステムの反応』です」
私は彼を安心させるためではなく、明確な事実を示すために、業務端末を空中に展開した。
そして、隠しポケットから二つの記録を取り出す。
一つは、私が彼のためにつけ続けてきた『選択記録帳』。もう一つは、王宮の医務官がつけていた殿下とリリーナさんの『診察記録』の写しだ。
「見てください。わたくしが会社から引き出した台本の進行表と、この記録帳の時刻。あなたが茶会でわたくしを止め、台本を壊したのが十四時二分」
「……ああ」
「そして、カルテの記録。あなたが医務室で強烈な頭痛を訴えたのが十四時三分。リリーナさんが倒れたのも、彼女が告白を拒否した一分後です」
私は空中に展開した表計算ソフトのような画面に、三つのデータを並べて統合した。
点と点が線になり、明確なグラフとなって視覚化される。
さらに、リリーナさんが夢の内容を記録した時刻と、会社が次のシーン情報を契約核へ送った時刻を重ねる。すべて、送信から一分以内に一致した。
《中心配役へのシーン情報漏出を確認》
彼女だけが未来を見られたのは、都合のいい予知能力ではなかった。物語の中心に強く固定された者ほど、役割契約から漏れた次の台本を、夢として受信してしまう。その副作用だったのだ。
「データは嘘をつきません。あなたたちを襲う頭痛と記憶欠落は、台本の予定時刻から逸脱した際、正確に『六十秒後』に発生しています。つまり、これはシステムの『エラー検知と修正プログラム』が作動しているだけの、ただの機械的な挙動です」
「……機械的な、挙動」
「ええ。あなたの心が弱いからペナルティを受けているのではありません。あなたが人間として、正しく異常なシステムに抵抗しているからこそ、エラーが起きているんです」
私の説明を聞き、ヴィルヘルムはゆっくりと目を開いた。
彼の青い瞳から、得体の知れない呪いに対する恐怖が、スッと消え去っていくのがわかった。
「……君は、すごいな」
ヴィルヘルムは微かに口角を上げ、私の顔を見上げた。
「誰もが私を『完璧な王太子』として扱い、弱さを見せれば失望する。だが君だけは、私が膝をついても決して失望せず、それどころか冷徹なデータを用いて、私の行動の正しさを証明してくれる」
「わたくしは事務員ですから。曖昧な感情論より、確固たる証拠で不安を取り除くのが仕事ですわ」
「……ありがとう、依子」
本名を呼ばれ、私の心臓がトクンと跳ねる。
ヴィルヘルムは額に乗せられた冷たい布をそっと外し、上体を起こした。頭痛の波は、すでに引き始めているようだった。
「……このすべてが終わったら。君は、どうするつもりだ?」
不意に、彼が真剣な声音で問いかけてきた。
「元の世界に、帰るのか。それとも……」
「それは……」
私は言葉を詰まらせた。
強制回収の期限は迫っている。でも、もし境界庁への告発が成功し、私が自由の身になったとしたら。
その先の未来を、私はまだ何も考えていなかった。
「……急かすつもりはない。だが、私の答えは決まっているとだけ、伝えておく」
ヴィルヘルムの真っ直ぐな眼差しに、私は顔が熱くなるのを感じて視線を逸らした。
その時、私の業務端末の画面に表示されていた『エラー発生地点の空間マッピング』の図が、不自然な空白を示していることに気づいた。
「……殿下、これを見てください」
「どうした?」
私は照れ隠し半分、本気の驚き半分で、端末の地図を彼に示した。
王宮の敷地内における、修正圧の発生履歴を視覚化したマップ。
赤い点が集中している広間や庭園に対し、一箇所だけ、ぽっかりとデータが存在しない空白地帯があった。
「ここは、王宮の北側にある……旧礼拝堂?」
「ええ。会社のシステムログを見ると、この旧礼拝堂の周辺だけ、通信のシグナルが完全に遮断されています。つまり……」
「役割契約の強制力も、修正圧のペナルティも、そして会社の監視も届かない『死角』ということか」
ヴィルヘルムの目が鋭く光った。
そこなら、星名部長の干渉を受けず、安全にギルベルトやリリーナを匿い、境界庁への通信を繋ぐことができる。
そして何より、システムに感情を覗き見られることもない、完全な自由意思が保証された空間だ。
「殿下、行きましょう。まずはあの旧礼拝堂を、私たちの反撃の拠点にします」
私が力強く頷くと、ヴィルヘルムも立ち上がり、私の手を取った。
作られた悲劇の台本を終わらせるための、最後の準備が始まろうとしていた。




