第24話 ヒロイン役は、王太子を選びません
それから七日後。公開審問を二日後に控えた王宮で、最後の仕掛けが動き出した。
王宮の庭園に設営された白亜のガゼボと、咲き誇る数万の薔薇。
本日は、王家主催という名目で、公式な茶会が開かれていた。
色とりどりのドレスに身を包んだ貴族たちが談笑する中、私は特等席である王太子の隣の席で、扇を広げて静かに周囲を観察していた。
ただし、招待状に記された正式名称は『王太子妃候補受諾披露茶会』。リリーナが妃候補への指名を受け入れたという、本人の筆跡を真似た偽の受諾書まで添えられていた。王家もリリーナ本人も承認していない、グランツ宰相の仕込んだ罠だ。
私たちは偽造に気づいていた。それでも、台本への拒絶が他人に命じられた芝居ではなく、本人の意思だと公の証言に残すため、リリーナはあえてこの茶会に出席したのだ。役割契約を破る第一条件へ進むための、最初の一歩だった。
(……来るわね)
タイムスケジュールによれば、時刻はまもなく十五時。
会社が設定した本日の『確定イベント』が始まる時間だ。
それは、ヒロインであるリリーナが、大勢の貴族たちの前で王太子ヴィルヘルムに愛の告白をするという、物語における重大な分岐点。
この公の場での告白と、それを受け入れる(ように見える)王太子の態度をもって、私という悪役令嬢を排除する『断罪式』への決定的な大義名分が完成する手はずになっている。
会場のざわめきが、潮が引くように静まった。
視線の先には、見習いの簡素な制服ではなく、淡い水色のドレスを着せられたリリーナが立っていた。宰相府の息がかかったメイドたちによって、無理やり着飾らされて連れてこられたのだ。
彼女は青ざめた顔で、ヴィルヘルムの座る席へとゆっくり歩み寄ってきた。
周囲の貴族たちが、面白半分に、あるいは宰相の筋書き通りに進むのを期待して、ニヤニヤと見守っている。
「……ヴィルヘルム殿下」
リリーナが、震える声で口を開いた。
彼女の目は虚に焦点が合わず、ドレスの裾を握りしめる指先は白く鬱血している。
役割契約による強烈な『行動誘導』が、彼女の脳と身体を支配しようとしているのだ。
『王太子を慕う可哀想なヒロイン』として、涙ながらに愛を打ち明け、私から彼を奪う台詞を口にするようにと。
「私は……わたくしは、殿下のことを……」
絞り出すような声。
ヴィルヘルムは扇の陰で微かに眉をひそめ、いつでも彼女を保護できるように立ち上がりかけた。私も、彼女が強制力に屈して台本通りの告白をしてしまっても、絶対に責めないと決めていた。
だが。
リリーナは、ハッと大きく息を吸い込むと、自らの両頬を両手でパンッと強く叩いた。
「――いいえ!」
弾かれたように顔を上げた彼女の瞳には、もう強制力に怯える光はなかった。
あるのは、自らの意思で運命を選ぶという、確固たる知性と決意。
「ヴィルヘルム殿下。私は、あなたを尊敬しております。ですが……あなたを恋愛対象として選ぶことは、決してありません!」
凛とした声が、庭園の隅々にまで響き渡った。
「私には、守るべき家族がいます。誰かの書いた悲劇のヒロインとして、誰かに選ばれて救われることなど望んでいません。私は、私の足で生きていきます!」
静寂。
水を打ったような、という月並みな表現すら生ぬるいほどの、完全な沈黙が庭園を支配した。
王太子に対する、公の場での明確な『拒絶』。
台本が完全に粉砕された瞬間だった。
「……っ、あ、あああっ!」
直後、リリーナが激しく頭を抱え込み、その場に崩れ落ちた。
役割契約の最大のペナルティ、『修正圧』だ。
物語の根幹を成す最重要イベントを、中心人物であるヒロイン自身が完全にへし折ったのだ。その反動の痛みは、以前私を庇ってヴィルヘルムが受けたものの比ではないはずだ。
「リリーナ嬢!」
周囲の貴族たちが呆然と立ち尽くす中、真っ先に動いたのはヴィルヘルムだった。
彼は王太子の威厳も体面も投げ捨て、石畳の上に倒れ込んだリリーナのもとへ駆け寄り、その身体を抱き起こした。
「しっかりしろ! 呼吸を整えるんだ!」
「でん、か……。わたし、ちゃんと言え、まし……た……」
脂汗を流し、苦痛に顔を歪めながらも、リリーナは微かに笑った。
彼女は自分の物語を、自分の意思で選び取ったのだ。
ヴィルヘルムの青い瞳が、彼女のその気高き反逆を称賛するように細められる。
私も席を立ち、彼女のもとへ駆け寄ろうとした。
「そこまでにしていただきましょう、殿下」
底冷えのする重たい声が、私たちの動きを止めた。
群衆を掻き分けて進み出てきたのは、分厚い銀の懐中時計を胸に提げた男――グランツ宰相だった。
彼の背後には、完全武装した宰相府の私兵たちが立ち並んでいる。
「グランツ宰相。見ての通り、彼女は急病だ。私は彼女を医務室へ運ぶ」
ヴィルヘルムがリリーナを抱き上げたまま、冷徹な声で宰相を睨みつける。
だが、宰相は口元に醜悪な笑みを浮かべ、大げさに肩をすくめた。
「急病? とんでもない。この娘は王家の正式な妃候補指名を受諾すると誓約しながら、あろうことか次期国王たる王太子殿下を公衆の面前で拒絶したのです。王家の招請を反故にした『王家侮辱罪』であり、決して看過できるものではありません」
宰相の言葉に、周囲の貴族たちがハッとして同調のざわめきを上げ始める。
私はギリッと奥歯を噛み締めた。
宰相は、台本が壊れたことを瞬時に逆手に取ったのだ。ヒロインが王太子を選ばないのなら、その不敬を理由に彼女を排除し、王太子の顔に泥を塗るという別のアプローチに切り替えた。
「その受諾書は偽造だ。私は彼女を妃候補に指名していない」
「公印のある文書を、その場のご都合で偽造と決めつけることはできません。真贋は二日後の公開審問で明らかにいたしましょう。それまで、重要証人の身柄を保全します。……その娘を捕らえなさい!」
宰相が短く命じると、私兵たちが一斉に槍を構え、ヴィルヘルムとリリーナを取り囲んだ。
「貴様ら、王太子である私に剣を向ける気か!」
ヴィルヘルムの声に激しい怒気が混じる。
だが、宰相は余裕の笑みを崩さない。
「殿下こそ、ご自重ください。ここで罪人を庇い、剣を抜かれれば……殿下が『私情で法を曲げる暗君』であると、この場にいる全員が証言することになりますぞ」
それが、宰相の狙いだった。
ヴィルヘルムがここで力ずくでリリーナを守れば、宰相はそれを大義名分として、彼を即座に失脚させることができる。
権力という盤面において、ヴィルヘルムは完全に王手をかけられていた。
「……殿下、いいんです」
ヴィルヘルムの腕の中で、激しい頭痛に耐えながらリリーナが掠れた声で囁いた。
「ここで殿下が、動いては……私たちの、作戦が……」
「リリーナ嬢……っ」
「私なら、大丈夫です……。自分の役は、自分で降りましたから……」
彼女はそう言い残し、ついに痛みに耐えかねて意識を手放した。
ヴィルヘルムはギリッと唇を噛み締め、屈辱に耐えながら、駆け寄ってきた宰相の私兵たちにリリーナの身体を引き渡した。
「丁重に扱え。彼女の身に万が一のことがあれば、私が直々に貴様らを裁く」
ヴィルヘルムの殺気を孕んだ低い声に、私兵たちはビクッと肩を震わせたが、すぐに気を失ったリリーナを拘束し、庭園の奥へと連行していった。
私はただ、その光景を黙って見つめることしかできなかった。
無力感はない。リリーナが自らの意思で、最も困難な「拒絶」のカードを切ってくれたのだから。
彼女が稼いでくれた時間と、見せてくれた覚悟を、絶対に無駄にはしない。
(待っていて、リリーナさん。必ず助け出すわ)
私は扇で口元を隠し、グランツ宰相の胸元で揺れる銀の懐中時計を、冷たく見据えた。
断罪式まで、あとわずか。
反撃の狼煙は、もう上がっている。




