第22話 十七分の遅刻で、王太子に抱きしめられました
王宮の中央広間は、水を打ったような静寂に包まれていた。
虚空から突如として現れた私を、何百という貴族たちが信じられないものを見るような目で見つめている。
少し離れた場所には、不快そうに顔を顰めるグランツ宰相の姿もあった。
「ヨリエル……?」
ざわめきを切り裂くように、聞き慣れた低い声が響いた。
人混みを乱暴に掻き分けて進み出てきたのは、漆黒の軍服を纏った王太子ヴィルヘルムだった。
彼の氷のように冷たいはずの青い瞳は、今は限界まで見開かれ、激しく揺らいでいる。
「殿下……。その、申し訳ありません。少々トラブルがありまして――」
私が悪役令嬢としての体裁を取り繕い、淑女の礼をしようとした、その瞬間だった。
ドンッ、と強い衝撃と共に、私の視界が反転した。
いや、違う。ヴィルヘルムが私の腕を引き、その胸の中に強く抱きしめたのだ。
「――っ!」
「……生きて、いるのか。本当に……君なのか」
軍服の硬い感触と、彼から香る白檀の匂いが、私の全身を包み込んだ。
彼の手が、私の背中と後頭部を、まるで壊れ物を確かめるように震えながら強く抱え込んでいる。
衆人環視の広間のど真ん中。普段の冷静沈着な彼からは考えられない、完全に理性を失った反射的な行動だった。
「殿下……苦しい、ですわ……」
「君が光になって消えてから、十七分。……私は、永遠に君を失ったのかと思った」
十七分。
私が現代側の転送カプセルの中で必死に正規の復旧手続きを通し、再接続を試みていたあの時間が、彼にとっても地獄のような十七分間だったのだと知った。
通常は現代の四時間がこちらの一日に圧縮される。だが、中心配役である私が強制切断された間だけは、イベント保留機能が働き、二つの世界の時間が同じ速さに落とされていたらしい。
私をデータや資産ではなく、失いたくない一人の人間として想ってくれている。
その事実が胸に迫り、私も思わず、彼の背中にそっと手を回そうとした。
しかし、ヴィルヘルムの身体がビクッと強張り、彼は自らサッと私から身体を離した。
「……すまない。無事を確認して安堵したとはいえ、君の許可も取らずに抱きしめるなど、不敬が過ぎた」
彼は自らの衝動を恥じるように微かに目を伏せ、私から一歩だけ距離を置いた。
どんなに感情が昂っていても、決して自分の権力や力で私を囲い込もうとしない。私の意思と境界線を最優先に守ろうとする、彼らしい誠実な後退だった。
「いいえ……わたくしこそ、ご心配をおかけしました」
「ここは人目が多い。場所を変えよう。リリーナ男爵令嬢も、一緒に来てくれ」
ヴィルヘルムは鋭い視線で周囲の貴族たち――特にグランツ宰相――を牽制すると、私とリリーナを伴って、足早に広間を後にした。
私たちが逃げ込んだのは、ヴィルヘルムの私室のさらに奥にある、厳重な魔力結界が張られた隠し部屋だった。
扉が閉まり、完全に外界から遮断された空間で、リリーナが堪えきれずに私の手にすがりついてきた。
「ヨリエル様……! 本当によかったです、いきなり光になって消えてしまわれたから、もう二度とお会いできないのかと……!」
「ごめんなさい、リリーナさん。驚かせてしまったわね」
涙ぐむリリーナの背中を撫でながら、私は自分の喉の奥に、ある『違和感』がないことに気づいた。
これまでは、私が運営会社のことや、自分の正体について語ろうとすると、システムの『守秘制約』が発動して強制的に声が奪われていた。
だが、今はその拘束感がない。
星名部長の強制回収と矛盾する勤怠記録を使い、復旧用バックアップから再接続したことで、私の役体を縛っていたシステムの監視網に、一時的な綻びが生じているのだ。
(今なら、本当のことを話せる……!)
私はヴィルヘルムとリリーナに向き直り、深く息を吸い込んだ。
「殿下、リリーナさん。今までお話しできなかった真実をお伝えします。わたくしは、この世界の住人ではありません」
「……別の世界から来た、ということか?」
ヴィルヘルムが真剣な表情で問う。私は頷いた。
「はい。『日本』という国の、『御堂人材サービス』という会社から派遣されてきました。この悪役令嬢ヨリエルの身体は、彼らが用意したかりそめの器ですわ。わたくしは、あなたたちを破滅させる台本を遂行するための、ただの派遣スタッフだったのです」
すべてを打ち明けた。
私が彼らの世界をシミュレーションだと言い含められていたこと。
時給と生活のためにこの仕事を受けたこと。
そして、彼らが本物の人間だと気づき、台本を壊す決意をしたこと。
ヴィルヘルムとリリーナは、私の言葉を遮ることなく、最後まで静かに聞き入っていた。
「……なるほど。私が以前、君の戸籍が偽造されたものだと突き止めたが、そもそもこの世界に存在しない人間だったとはな」
ヴィルヘルムは顎に手を当て、深く納得したように頷いた。
彼に軽蔑されるかもしれないと恐れていたが、その瞳にあるのは、怒りではなく、真実を知ったことへの静かなる安堵だった。
「だが、君がどこの世界から来ようと、何の目的で派遣されようと、関係ない。君が私を暗殺者から救い、定時を守り、共に台本に抗おうとしてくれている事実は変わらないのだから」
「殿下……」
「一つ、教えてくれないか」
ヴィルヘルムが、一歩だけ私に近づいた。
「君の、本当の名前を」
その問いかけに、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
舞踏会の夜、彼が私に告げた『いつか、ヨリエルではない君の本当の名を知りたい』という願い。
私は背筋を伸ばし、悪役令嬢の作り声ではない、私自身の声で答えた。
「日下部、依子です。……二十六歳の、しがない派遣事務員ですわ」
「クサカベ……ヨリコ。依子」
ヴィルヘルムの端正な唇が、私の名前をゆっくりと紡ぐ。
異世界の王太子に、自分の本名を呼ばれる。その響きはひどく甘く、これまでのどんな報酬よりも私の心を震わせた。
「依子様、ですね。私はこれからも、依子様とお呼びしてもよろしいですか?」
リリーナもまた、涙目を拭いながら力強く微笑んでくれた。
「ええ、もちろんよ。……でも、喜んでばかりもいられないわ」
私は業務端末を空中に呼び出し、現在のステータスを確認した。
「わたくしは今、システムの監視をすり抜けて不正に再入場している状態です。ミサキ先輩のフェイクログが保つ間、会社側の管理画面では『強制回収済み』のままです」
「一時的に、敵の目から隠れているということだな」
「はい。星名部長が矛盾に気づくまでの、短い猶予です」
私は端末の時計を指差した。
「私たちが処刑され、廃棄される運命の『断罪式』まで……残り九日です」
たった九日。
その間に、グランツ宰相から裏帳簿を奪い、会社を告発する証拠を揃え、さらに境界庁という外部機関へ通報しなければならない。
途方もない作業量だ。だが、今の私たちには、会社側が把握していない『空白の時間』という最大の武器がある。
「九日あれば、十分だ。……依子。君の事務の力と、私たちの手で、このふざけた台本を完全に終わらせよう」
「はい。最高の業務報告書を叩きつけてやりますわ」
ヴィルヘルムの力強い言葉に、私は本名の自分のまま、力強く頷いた。




