第21話 退勤打刻をしていないので、まだ勤務中です
【記憶処理開始まで……28:45】
無機質な赤いデジタル数字が、秒単位で私の記憶の余命を削っていく。
秋葉原の地下三階。冷たい転送カプセルの中に閉じ込められた私は、強化ガラスの扉を両手で叩き続けていた。
「開けて! お願い、出して……!」
叫び声は防音ガラスに遮られ、薄暗い待合室には届かない。
息が苦しい。恐怖で指先が震え、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打っていた。
私がここから出られず、あのカウントダウンがゼロになれば、システムが私の脳に直接干渉してくる。
異世界での一ヶ月間の記憶。
リリーナが流した本当の涙。ギルベルトの迷い。
そして――ヴィルヘルムの、不器用で誠実な微笑みと、私の時間を守ろうとしてくれた温かい手の感触。
それらすべてが『なかったこと』にされ、私は明日からまた、何も知らないただの派遣事務として神田のオフィスに出勤することになる。
(嫌だ。あんなに必死に抗っている彼らを置いて、私だけが逃げるなんて)
ガラスを叩く手が赤く腫れ上がってきた、その時だった。
「――ヨリちゃん、ガラスから離れて!」
待合室の奥から、ヒールを鳴らして駆け込んでくる人影があった。
聖女役の先輩派遣、ミサキさんだ。彼女の腕には、会社支給の分厚い管理用タブレットが抱えられている。
彼女がタブレットの画面を激しくタップすると、転送カプセルの電子錠が「ガチャン!」と重い音を立てて外れた。
「ミサキさん……!」
「急いで出て! 星名部長の端末にフェイクのログを流し込んで、足止めしてる。記憶処理のカウントダウンは一時停止させたけど、もって数分っすよ!」
私はカプセルから転がり出るように飛び出し、激しく咳き込んだ。
見上げると、カプセル内のモニターの数字が【27:12】で停止している。
「ありがとうございます……でも、どうして」
「ウチの御堂支店長、普段は事なかれ主義のくせに、たまに変なところでビビりなんだよね。星名部長の強引な強制回収にビビッて、『タバコ吸ってくる』って言いながら、非常用ポートのアクセス権限を開けっぱなしにして逃げたの」
ミサキさんは呆れたように笑った。
御堂支店長は、違法な運用に加担しているグレーな人物だ。だが、完全に星名部長の冷酷さに染まりきっているわけではなく、保身から意図的に『抜け穴』を残していったのだ。
「で、ヨリちゃん。あんた、これからどうする気? 星名部長は本気だよ。このまま逃げて大人しく記憶を消されるか、それとも――」
「戻ります。あっちの世界へ」
私は乱れた呼吸を整え、ミサキさんの目を真っ直ぐに見返した。
「ヴィルヘルム殿下たちを、あの狂った台本の中に置き去りにはできません。それに……私はまだ、今日の業務を終わらせていませんから」
「……そっか。やっぱ、あんたはそう言うと思った」
ミサキさんは口角を上げると、抱えていたタブレットを私に向かって放り投げた。
私はそれを受け取り、画面に表示されたシステムログに目を走らせる。
「ヨリちゃん。星名部長はあんたを『強制回収』したつもりになってるけど、システム上、決定的なエラーがある。わかるっしょ?」
ミサキさんの言葉に、私は現代の事務員としての目を光らせた。
システムのログを確認する。
私の役体であるヨリエルへのアクセス権限は、本社によって強制的に『遮断』されている。
しかし、私の『勤怠管理システム』のステータスは。
「……退勤の打刻が、されていません」
「ビンゴ」
今回の副業契約では、就業時間の終了は『相互の合意』または『物理的な退勤打刻』をもって成立する。
星名部長は私をシステムから弾き出しただけで、勤怠管理上の退勤処理を完了させていない。つまり、この契約の終了条項上、私は現在も『勤務時間中』の扱いになっているのだ。
「星名部長は私たちをデータや資産だと見下しているから、こういう基本的な労務管理の手続きを軽視するんです。……システムが私の契約を『継続中』と判定しているなら、このセッションはまだ生きています」
私は震える指をキーボードに這わせた。
神田のオフィスで、理不尽な上司の責任転嫁を保存メールと議事録で論破した時と同じ。
巨大な権力や悪意に立ち向かうための私の武器は、いつだって『正確な記録とルール』だ。
プログラムを書く必要はない。管理用タブレットには、障害時に未完了の勤務を戻すための正規メニュー――【未完了勤務セッションの復旧】が用意されていた。私は開けっぱなしになっていた非常用ポートを選び、自分の未打刻の勤怠ログを添付して、認証サーバーへ復旧申請を送った。
《認証:日下部依子。現在のステータス:勤務中》
《警告:本社の強制回収コマンドと矛盾が発生しています》
《強制回収処理を保留。残留セッションおよび復旧用バックアップを検出しました》
「矛盾なんてありません。私はまだ、退勤打刻をしていないのですから」
私は手順書通り、画面に現れた【復旧を実行】のボタンを強く叩いた。
《セッションの再開を承認します。転送シークエンスを再起動します》
《復旧用バックアップから、ヨリエル役体への接続を再開します》
停止していた転送カプセルが、再び低く重たい駆動音を鳴らし始めた。
「ヨリちゃん、急いで! 星名部長がエラーに気づいて、システムを上書きしてくるよ!」
「ミサキさん、本当にありがとうございました! この恩は必ず……!」
私はタブレットをミサキさんに返し、再びカプセルの中へと飛び込んだ。
ガラス扉が閉まり、眩い光が足元から立ち昇ってくる。
「恩なんていいから、定時で帰ってきなよ! あっちの連中、ぶっ飛ばしてきな!」
光の向こう側で、ミサキさんが親指を立てて笑うのが見えた。
私は強く頷き、目を閉じた。
(待っていて、殿下、リリーナさん。私はもう、交換可能な駒なんかじゃない)
激しい浮遊感と、全身が分解されて再構築されるような感覚。
やがて光が収まり、私の足が硬い床を踏みしめた。
空気の匂いが変わる。秋葉原の埃っぽい匂いから、香水と蝋燭の入り混じった、王宮特有の豪奢な匂いへ。
「……戻って、これた」
目を開けると、私は重たいベルベットのドレスに身を包んだ、悪役令嬢ヨリエルの姿に戻っていた。
間に合った。記憶は消されていない。
だが、次の瞬間、私は周囲の異様な気配に気づいて息を呑んだ。
「な、なんだ、あそこから突然人が……!」
「ヨリエル様!? いつの間にあんなところへ……?」
耳に飛び込んできたのは、ざわめく大勢の男女の声だった。
私は慌てて周囲を見回した。
私が転送されたのは、宰相府の隠し部屋でも、自分の自室でもなかった。
豪華なシャンデリアが天井から下がり、着飾った大勢の貴族たちが集まる、王宮の中央広間。
そのど真ん中に、私は突然、虚空から現れる形で再転送されてしまったのだ。
端末の隅に、再配置の理由が表示されていた。
《警告:強制回収により指定座標が失効しています》
《代替座標:最優先シナリオ反応地点》
私が消えた混乱を利用し、グランツ宰相が「王太子の婚約者失踪」を議題に緊急評議を招集したため、中央広間に強いシナリオ反応が集中していたらしい。復旧機能は、そこを最優先の代替座標として選んだのだ。
「ヨリエル……?」
ざわめく人混みが割れ、その奥から、信じられないものを見るような目をしたヴィルヘルムが現れた。
彼の隣にはリリーナがおり、少し離れた位置にはグランツ宰相の姿もある。
(嘘でしょ……断罪式までまだ時間があるはずなのに、なんでこんなに人が集まってるの!?)
再転送には成功した。
しかし、到着地点は最悪だった。
会社の監視をすり抜けて戻ってきたイレギュラーな悪役令嬢に対し、広間中の何百という視線が一斉に突き刺さっていた。




