第20話 強制退勤は、別れの挨拶もさせてくれない
【次回ログアウト時、強制回収および記憶処理を実行します】
転送の光の中で網膜に焼き付いたその宣告は、私の心臓を氷の鷲掴みにしたように冷やした。
猶予はこの一回の勤務、現実時間にして四時間。異世界では、朝から夜までの一日がその四時間に圧縮される。
転送が完了し、王宮の自室で目覚めた私は、即座に動いた。
まずはヴィルヘルムとリリーナに接触し、事態の切迫を伝えた。私が排除されれば、すぐに『強制執行役』が投入され、台本通りの悲劇が容赦なく執行されてしまうこと。
それを防ぐためには、今日この日のうちに、グランツ宰相が王印を偽造し、暗殺を企てた決定的な証拠……『宰相府の裏帳簿』を手に入れるしかなかった。
「……時間がありませんわ。今日中に、宰相府の隠し金庫を開けます」
王宮の薄暗い書庫で、私はヴィルヘルムとリリーナに向かって宣言した。
そして、部屋の隅で無表情に立つ護衛騎士――ギルベルトを真っ直ぐに見据えた。
「ギルベルト卿。あなたも同行してください。会社の監査官として、わたくしたちが何を見つけるか、その目で確かめる義務がありますわ」
「……」
ギルベルトはわずかに眉を動かしたが、無言で頷いた。
彼はまだ完全に会社を裏切ったわけではない。「内乱を防ぐ」という建前を信じている彼にとって、私たちは危険なイレギュラーだ。だが、彼自身も最近の会社の強引なやり方に疑問を持ち始めているのは明らかだった。
私たちはヴィルヘルムの権限を利用して宰相府の区画へ入り込み、以前彼が目星をつけていた奥の執務室へと忍び込んだ。
壁に偽装された隠し金庫。その鍵穴は特殊な形状をしており、例の分厚い『銀の懐中時計』と同じ魔力波長を放っていた。
「……私の魔力で鍵穴の構造を解析し、疑似的な波長を流し込む。少し時間がかかる」
ヴィルヘルムが金庫の前に膝をつき、手のひらから微かな光を放ち始めた。
リリーナが廊下の見張りに立ち、ギルベルトが油断なく周囲を警戒している。
私はヴィルヘルムの背中を見つめながら、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えていた。
もしこの金庫が開いたとして、その後はどうなる?
私は現実世界のログアウト時刻を迎えれば、強制的に回収され、記憶を消される。
彼に別れを告げる時間すら、残されていないかもしれないのだ。
「開いたぞ」
カチャリ、と重たい金属音が響き、ヴィルヘルムが金庫の分厚い扉を開けた。
中には、黒い革張りの手帳や、複数の書類の束が詰め込まれていた。
「これが……」
ヴィルヘルムが書類の束を手に取った、まさにその瞬間だった。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
私の視界全体が、唐突に真っ赤な警告色に染まった。
業務端末の画面ではない。私の網膜そのものに直接、システムのアラートが焼き付けられるような感覚。
《規定滞在時間の超過、および重大な契約違反を確認》
《強制回収シークエンスを前倒しで起動します》
「っ……あ……!」
全身の力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。
指先が、ドレスの裾が、パラパラと光の粒子になって崩れ始めている。
痛覚はない。ただ、自分の存在がこの世界から『削除』されていく明確な喪失感だけがあった。
「ヨリエル!?」
異変に気づいたヴィルヘルムが、書類を放り出して私に駆け寄ってきた。
「どうした、何が起きている! 君の身体が……!」
「で、殿下……ごめんなさい、時間、切れみたい……ですわ……」
声を出すことすらひどく困難だった。
光の粒子となって崩れていく私の身体を、ヴィルヘルムが両手で必死に掴もうとする。だが、彼の手は私の身体をすり抜け、空を切るだけだった。
役体の強制ログアウト。物理的な干渉など、システムの前では無意味だ。
「ヨリエル、待て! 行くな! まだ君は……っ!」
ヴィルヘルムの悲痛な叫び声が、遠く、水の中にいるようにくぐもって聞こえる。
彼の氷のように冷たいはずの青い瞳が、見開かれ、絶望に揺れていた。
私は最後に、彼に向かって手を伸ばそうとした。せめて、本当の名前だけでも伝えたかった。
でも、強制退勤は、別れの挨拶もさせてくれない。
パーンッ、と視界が強烈な白い光に包まれ、ヴィルヘルムの顔も、宰相府の部屋も、すべてが暗転して消え去った。
次に目を開けた時、私は秋葉原の地下三階、カプセル型の転送ブースの中に立っていた。
全身が鉛のように重い。息を荒らげながら、私はブースのガラス扉を押し開けようとした。
「開かない……っ!」
扉は固くロックされ、ビクともしない。
焦燥感に駆られてガラスを叩く私の目の前で、ブース内部の小さなモニターが冷たく発光した。
そこには、無機質なデジタル時計の数字が表示されていた。
【強制回収完了。これより機密保持プロトコルへ移行します】
【記憶処理開始まで……30:00】
数字が、29:59、29:58と、無慈悲に減っていく。
三十分。
たった三十分後には、私の脳にシステムが干渉し、あの異世界での一ヶ月間の記憶がすべて消去される。
ヴィルヘルムの温かい手も、リリーナの涙も、彼らと共に過ごした時間のすべてが、私の中から永遠に失われてしまうのだ。
「嫌……開けて! 開けなさいよ!!」
私は泣き叫びながら、割れんばかりの力でガラス扉を叩き続けた。
ガラスを叩いた衝撃で、カプセル側面の小さな保守モニターが明滅した。
《残留セッション映像を受信》
ノイズだらけの画面に、つい先ほどまでいた宰相府の隠し部屋が映る。
ヴィルヘルムは、私が消えた場所に膝をついたまま、床に残った扇を握りしめていた。
「ヨリエル……」
呼びかける彼の声まで、途切れ途切れに届いた。
その背後で、ギルベルト卿が床へ視線を落とす。金庫から放り出された黒い革張りの帳簿。その一部を拾い上げた彼は、会社への報告端末に手をかけ――やがて手を止めた。
そして帳簿を、密かに軍服の懐へ入れた。
なぜそうしたのかは、私にはわからない。
けれど彼は初めて、会社に見せない証拠を自分の手元へ残したのだ。
映像が途切れ、視界には再び、私の記憶を削る数字だけが残った。




