第19話 本業の契約更新より、守りたい勤務先ができました
「日下部さん! この備品の発注数、ひと桁間違っているじゃないか!」
神田にある事務用品卸会社のフロアに、営業課長のヒステリックな怒声が響き渡った。
カタカタとキーボードを叩いていた私は、ゆっくりと手を止めて息を吐き出した。
時刻は十七時十五分。あと四十五分で、私の『本業』の定時だ。
「課長、どういうことでしょうか」
「どういうことも何もない! 百個でいい特注ファイルを、君が千個も発注したせいで、倉庫がパンク寸前なんだよ! 派遣だからって、こんな無責任なミスをされては困る!」
周囲の正社員たちが、腫れ物に触れるような目でこちらを見ている。
以前の私なら、理不尽な責任転嫁に怯え、「申し訳ありません」と平謝りしていただろう。派遣という弱い立場で波風を立てれば、次の契約更新はないかもしれないと恐れていたからだ。
だが、今の私は違う。
毎晩、暗殺者の矢を躱し、王太子の処刑予定日という絶望に立ち向かい、会社という巨大な悪意と戦っているのだ。
それに比べれば、この程度のパワハラなど、そよ風に等しかった。
私は落ち着いた動作でデスクの引き出しを開け、クリアファイルから数枚のプリントアウトを取り出した。
「課長。こちらのメールの文面をご確認ください」
私は立ち上がり、課長の鼻先にその紙を突きつけた。
「先週の木曜、十四時三十分に課長からいただいた発注指示のメールです。『特注ファイル、念のため千個で発注進めて』と明記されております。さらに、こちらの議事録。同日のミーティングで、私が『千個で間違いないか』と再確認し、課長が『問題ない』と承認された記録が残っております。関係者全員にCCで送信済みです」
課長の顔から、スッと血の気が引いていくのがわかった。
「あ、いや……それはその時の状況が……」
「私は指示通りに発注処理を行い、承認を得たという事実がございます。これ以上の責任追及をされるのであれば、派遣元の担当者も交えて、メールのログと議事録を基に正式にお話しさせていただきますが、いかがなさいますか?」
「っ……! わ、わかった! 今回は私の確認不足だったようだな。もういい、仕事に戻りなさい!」
課長は逃げるように足早に去っていった。
周囲の社員たちが、感嘆と少しの畏敬を込めた目で私を見ている。
私は乱れたブラウスの襟を直し、再びキーボードに向かった。
自分の意思で、不当な扱いに「No」と言えた。
交換可能な人材として自分を安売りせず、証拠という武器で自分の身を守ることができたのだ。
定時きっかりにタイムカードを押し、私は秋葉原へと向かった。
雑居ビルの地下三階、異世界人材バンク・転送待合室。
パイプ椅子に座ってツナマヨおにぎりを齧っていたミサキさんが、私を見るなりパチリとウインクをした。
「おっ、ヨリちゃん。なんか今日、顔つきが違うっしょ。スッキリしてるっていうか、一皮剥けたっていうか」
「わかりますか? 実は今日、本業の職場でちょっとありまして」
私は隣のパイプ椅子に腰掛け、神田のオフィスでの出来事を手短に話した。
保存メールと議事録で、上司の責任転嫁を跳ね返したこと。契約更新を盾にされても、もう怯えなかったこと。
「へえー! やるじゃん! つーか、マジで逞しくなったね。前はもっとビクビクしてたのに」
「守りたい勤務先ができたからかもしれません」
私は自嘲気味に笑った。
「時給三千円の副業のはずだったのに。気がついたら、理不尽な台本に縛られている彼らのために、自分のすべてを懸けて戦おうとしているんです」
「……そっか。ヨリちゃんは、あっちの世界の住民を、もう完全に『人』として見てるんだね」
ミサキさんの表情から、いつものギャルっぽい軽薄さがスッと消え去った。
彼女は手元のおにぎりの包み紙をゴミ箱に捨てると、周囲に人がいないことを確認し、声を潜めた。
「ヨリちゃん。あんたが本気で会社(星名たち)とやり合う気なら、一つだけ武器を教えてあげる」
「武器、ですか?」
「そう。この会社の『旧約款』の話」
ミサキさんは自分の業務端末を呼び出し、複雑な操作で隠しファイルのようなものを開いた。
「今の約款からは消されてるんだけどね。この会社がまだ真っ当な合法派遣だけをやってた初期の頃、約款の隅っこに『外部監査への緊急通報条項』ってのがあったの」
「外部監査……あっ」
私は思い出した。
以前、私が自分の端末のマニュアルを隅々まで読み込んだ時、極小の文字で書かれていた一文だ。
『本業務は、境界庁・異界交流監理室の外部監査対象となる場合があります』という、あの謎の機関の名前。
「そう、境界庁。彼らは合法的な異世界救援を監督する秘密の行政機関なんだけど、星名部長の『物語運営部』がやってる違法な悲劇ルートのことは把握してない。星名たちが監査の目を欺いてるからね」
「では、その境界庁に、会社が現地住民の同意を偽造し、意図的に暗殺や処刑を仕組んでいる証拠を送れば……!」
「ビンゴ。運営免許の停止に持ち込めるかもしれない。でも、そのためには確たる『証拠のログ』と、改ざんされる前の『原契約』が必要になる。……ヨリちゃん、逃げずに集める覚悟、ある?」
ミサキさんの真剣な問いかけに、私は迷わず頷いた。
「あります。神田のオフィスでも、王宮でも、私の武器は『記録』です。必ず証拠を集めてみせます」
「よし、言ったね。頼もしい後輩を持って、先輩は嬉しいっすよ」
ミサキさんはニカッと笑い、私の背中をバシッと叩いた。
勇気をもらい、私は立ち上がって転送ブースへと向かう。
断罪式まで残り少ない。今日は宰相府の帳簿の一部を確保するための、極秘の行動を予定している。
「一番ブース、転送入ります」
無機質なアナウンスと共に、ブースのガラス扉が閉まる。
目を閉じ、転送の白い光に包まれようとした――まさにその瞬間だった。
ビーッ! という鋭い警告音が、密閉されたブース内に鳴り響いた。
私の目の前の空中に、毒々しい赤色のシステムパネルが強制的にポップアップする。
《物語運営部・星名部長より、業務命令の通達》
「星名部長……!?」
画面に映し出されたテキストは、血の気が引くほど冷酷で、事務的な宣告だった。
『日下部依子さん。再三の警告にもかかわらず、あなたは対象の感情変動を不当に引き上げ、物語の損益分岐点を著しく割り込ませました。もはやスタッフとしての代替は不可能です。
よって、本日の業務終了(次回ログアウト)時をもって、あなたを強制回収対象に指定します』
「強制、回収……!?」
『帰還と同時に、機密保持のための『記憶処理』を実行します。異世界での記憶、および本業務に関する一切の記憶を消去し、契約を終了とします』
頭の中が真っ白になった。
記憶処理。
ヴィルヘルムと交わした言葉も、彼の手の温もりも、リリーナの本当の涙も。
すべてが私の脳から消し去られ、ただの派遣事務の日常に強制送還される。
「待って、そんなこと認められない! 私はまだ――!」
叫び声は、転送の激しい光と浮遊感の中に吸い込まれていった。
引き返すことはできない。
次に日本へ帰還した瞬間、私はすべてを忘れる。
残された猶予は、この一回の出勤、たった四時間しかなかった。




