第18話 契約外の告白は、まだ受理できません
王宮の使われていない来客用サロンには、傾きかけた夕日が長く柔らかい影を落としていた。
私が急造した『選択記録帳』を手にしたヴィルヘルムは、表紙の裏に記された『彼女を役名だけで呼ぶな』という自分自身の言葉を、愛おしむように指先でなぞっていた。
修正圧による激しい頭痛は完全に引いたようだが、彼の顔にはまだ微かな疲労の色が残っている。
「……不思議な気分だ」
沈黙を破り、ヴィルヘルムが静かに口を開いた。
彼の青い瞳が、窓から差し込む夕日を受けて琥珀色に透けている。
「茶会で何が起き、私がどう動いたのか。頭の中の記憶はすっぽりと抜け落ちているのに、君が書いてくれたこの事務的な議事録を読むと、私自身の思考の動きが手に取るようにわかる。私が君を信じ、君を助けようとしたという事実だけが、確かな熱を持って胸の奥に残っているんだ」
「それは、殿下ご自身が常に論理的で、誠実な選択をなさっているからですわ」
私は長椅子の端に座ったまま、静かに微笑んだ。
私がやったことは、現代のオフィスで毎日やっていた「言った言わないのトラブルを防ぐための議事録作成」の応用でしかない。
だが、そのただの文字列が、記憶を奪う理不尽なシステムから彼自身の心を守る盾になったのだ。
ヴィルヘルムは手帳を丁寧に閉じ、自らの軍服の胸ポケットへとしまった。
そして、ゆっくりと私の方へ身体を向けた。
「君は、私の命を狙う暗殺者から私を救い、私が記憶を失っても、こうして揺るぎない事実だけを拾い上げて私を繋ぎ止めてくれた。……君がどこの誰で、どんな事情でこの悪役令嬢を演じているのかは、まだ聞けないが」
彼の声のトーンが一段低く、甘く柔らかなものに変わる。
ヴィルヘルムは長椅子の上で少しだけ私の隣へと距離を詰めた。
「手に触れてもいいか?」
私が小さく頷くと、彼は膝の上で組まれていた私の両手を、大きな手でそっと包み込んだ。
「あっ……」
触れられた指先から、ドクンと心臓の跳ねる音が伝わってしまいそうで、私は息を呑んだ。
「私は今、君という一人の人間に、ひどく惹かれている。この感情は、私が今まで生きてきた中で――」
「待ってください」
私は反射的に、彼の言葉を遮っていた。
包み込まれていた両手を、失礼にならないよう、けれど明確な拒絶の意思を持って引き抜く。
ヴィルヘルムの目が、驚きにわずかに見開かれた。
「ヨリエル……?」
「……これ以上は、言わないでください。お願いです」
自分でも情けないほど、声が震えていた。
彼の告白は、一人の女性として、これ以上ないほど嬉しいものだった。こんなにも誠実で美しい人に真っ直ぐに想いを向けられて、心が動かないわけがない。
でも、だからこそ怖いのだ。
「殿下。わたくしたちは今、グランツ宰相が発注した『悲劇の台本』と、それに伴う『役割契約』という呪いの中にいます。……あなたのそのお気持ちが、本当にあなた自身のものだという確証が、どこにあるのですか?」
私が絞り出した言葉に、ヴィルヘルムはハッとしたように息を呑んだ。
役割契約のルール。
それは、行動を誘導し、状況を寄せ、感情を増幅させるというものだ。
心そのものを作ったり、最後の選択まで奪ったりはできない。だから人は抵抗でき、その摩擦が頭痛や記憶欠落として現れる。
リリーナが「逃げたいのに逃げられない」と思い込まされていたように、ヴィルヘルムの私への関心も、システムが『悲劇の結末をより残酷に盛り上げるため』に不自然な強さへ増幅しているのかもしれない。
もし私がこの甘い言葉を受け入れた後で、「やっぱりすべては台本に作られた感情でした」とシステムに上書きされてしまったら。
私は間違いなく、立ち直れないほどの致命傷を負ってしまう。
「わたくしは、交換可能な人材です。それでも、偽物の感情で自分の心を安売りすることだけは、絶対に嫌なのです。……ですから、契約外の告白は、まだ受理できません」
私は震える手を自分の膝の上で強く握りしめ、頭を下げた。
せっかく彼が歩み寄ってくれたのに、私はそれをシステムへの恐怖から突き放してしまった。彼を傷つけ、怒らせてしまったかもしれない。
しかし、私の頭上から降ってきたのは、怒声でも呆れた溜め息でもなかった。
「……なるほど。君の言う通りだ」
ひどく穏やかで、深い納得を伴った声。
顔を上げると、ヴィルヘルムは傷ついた顔ひとつせず、むしろ私の慎重さを称賛するように優しく微笑んでいた。
「私は、君のそういうところが好きなんだ。どんなに甘い言葉をかけられても、決して状況の不確実性から目を逸らさず、冷静にリスクを評価する。君のその防衛線が、これまで何度も私たちを救ってきた」
彼は、私が拒絶したことを「自分への否定」とは受け取らなかった。
私の抱える恐怖の根源を正確に理解し、その境界線を尊重してくれたのだ。
「もう一度だけ、手に触れても?」
私が頷くと、ヴィルヘルムはもう一度、私の手に自らの手をそっと重ねた。今度はただ温もりだけを伝える、羽のように軽い触れ方だった。
「ならば、この言葉の続きは保留にしておこう。この理不尽な台本を完全に破り捨て、私たちが一切の契約から解放された時……何の疑いもない場所で、もう一度、一から君に求婚する。それまで待ってくれるか?」
「殿下……」
押し切ることも、強引に奪うこともしない。
ただ私の意思とペースを守り、不確実な世界の中で「待つ」という選択をしてくれた彼に、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じて、小さく、しかし何度も頷いた。
「……はい。その時が来るよう、わたくしも全力で業務にあたります」
私たちは、夕日の差し込むサロンで、今度こそ静かに微笑み合った。
その後、彼と別れて自室に戻った私は、緊張が解けた反動で天蓋ベッドに顔からダイブしていた。
「あああああ……っ! やばい、王太子様に求婚の予約なんてされちゃった……!」
クッションに顔を埋めながら、両足をバタバタとバタつかせる。
頭の中は冷静に立ち回っていたつもりでも、中身はただの派遣OLだ。あんな完璧な王子様に甘い言葉を囁かれて、平常心でいられるわけがない。
顔から火が出そうなくらい熱い。
「落ち着け、私。とりあえず、本日の業務報告書を……」
私は深呼吸をして、空中に業務端末を呼び出した。
すると、日課の報告書作成画面を開く前に、視界の中央にポンッとポップアップウィンドウが表示された。
《システム通知:対象Bの言動変化を検知しました》
《観測不能:対象の言動は、役割契約による追跡・増幅の範囲外です》
その無機質な文字列を読んだ瞬間、私の顔の温度はさらに急上昇し、限界を突破した。
端末は彼の心を読めないし、恋心が本物だと証明することもできない。
ただ、今の言葉と選択が、会社の予測線から外れていたことだけは記録していた。
「……っ〜〜〜!」
私は真っ赤になった顔を再びクッションに押し付け、悶絶した。
嬉しい。嬉しくてたまらない。でも、それと同時に強烈な脱力感が襲ってくる。
「……あのさあ。人の言動を何でも数値にして通知してくるの、本当にどうかと思うんですけど!」
誰もいない自室で、私は業務端末の空気を読まないお節介な機能に向かって、本気のツッコミを入れることしかできなかった。




