第17話 王太子は、自分の選択を忘れていく
「……君は、ヨリエルか? なぜ君は泣いているんだ。それに、なぜ私はこんな人気のない回廊にいる?」
ヴィルヘルムのその問いかけは、あまりにも静かで、残酷だった。
彼の青い瞳には、私に対する嫌悪もない代わりに、先ほどまで確かにあったはずの「信頼」の色もすっぽりと抜け落ちていた。
「殿下……嘘、ですよね? つい先ほど、茶会でわたくしを止めてくださったではありませんか」
私の隣で、リリーナが震える声で尋ねる。
しかし、ヴィルヘルムは片手でこめかみを押さえながら、酷く真面目な顔で首を振った。
「茶会……? いや、私の記憶は、控え室で茶会へ向かう準備をしていたところで途切れている。時計の針を見る限り、一時間ほど時間が飛んでいるようだが……頭が割れるように痛む」
彼が顔を歪め、再び壁に手をつく。
その様子を見て、私は理解した。
これは偶然の記憶喪失などではない。会社が定めた役割契約のペナルティ――『修正圧』だ。
システムが強制したシナリオ(私がリリーナを加害する展開)を、彼が自らの意思で強引に破壊した。そのことに対する代償として、システムは彼の脳から「台本に逆らった一時間」の記憶を丸ごと消去したのだ。
(なんて悪辣なシステムなの……っ)
積み上げた信頼すら、システムの一存でリセットされてしまう。
あまりの理不尽さに、私はギリッと奥歯を噛み締めた。
普通の令嬢なら、ここで「思い出してください」と泣きすがるだろう。あるいは、絆が失われたことに絶望して泣き崩れるかもしれない。
だが、私は神田のオフィスで揉まれた派遣事務だ。
人間の記憶がどれほど曖昧で、システムがどれほど理不尽であろうと、絶対に奪われないものがあることを知っている。
「リリーナさん。殿下を近くの空き部屋へ。人目につかない場所で休ませましょう」
「は、はい!」
私たちはヴィルヘルムの両脇を支え、使われていない来客用のサロンへと彼を運び込んだ。
リリーナには扉の外で不審者が来ないか見張りを頼み、私はヴィルヘルムを長椅子に横たわらせた。
「すまない……。ひどい頭痛だ。まるで、脳の奥を直接かき回されているような……」
「無理に思い出そうとしないでください。冷たい水を持ってきます」
私は部屋の隅にあった水差しから布を濡らし、固く絞って彼の額に乗せた。
ヴィルヘルムは目を閉じ、荒い息を吐きながら痛みに耐えている。
その静かな看病の傍らで、私はドレスの隠しポケットから小さな手帳とペンを取り出した。
(記憶が消されるなら、外部記憶を作ればいいだけよ)
私はペンの尻をカチッと鳴らし、真っ白なページに向かった。
ここに私の主観や、感情的な「お願い」を書いてはいけない。記憶を失い、警戒心を持っているはずの彼を納得させるには、客観的な事実と、彼自身の思考の痕跡だけが必要だ。
私は、先ほどの茶会で起きた出来事を、完璧な『議事録』として書き起こしていった。
私が異常な挙動を示したこと。リリーナが合図を送ったこと。彼が瞬時に介入し、茶会を強制終了させたこと。
そして何より、彼自身が口にした言葉の正確な引用。
五分ほどで書き上げ、私はペンを置いた。
長椅子で横たわっていたヴィルヘルムの呼吸が、少しずつ穏やかなものに変わっていく。
修正圧の嵐が過ぎ去ったのだ。
「……少し、楽になった。見苦しいところを見せたな」
ヴィルヘルムがゆっくりと目を開け、額の布を押さえながら上体を起こす。
私は無言で、先ほど書き上げたばかりの手帳を彼に差し出した。
「これは?」
「あなたが失った一時間の記録です。わたくしが書いたものですから、偽造を疑うのは当然ですわ。ですが、まずは目を通してください」
ヴィルヘルムは怪訝な顔をしながらも、手帳を受け取り、ページに視線を落とした。
静寂が降りたサロンに、彼がページをめくる衣擦れの音だけが響く。
彼は手帳を読み進めるにつれ、微かに目を細め、やがてフッと息を吐き出した。
「……ひどく事務的で、味気ない文章だ。私が君を助けたことに対する、感情的な感謝の言葉も、思い出してほしいという懇願も一切書かれていない」
「議事録に感情は不要ですわ。必要なのは、誰が何を決定したかという事実だけです」
私の答えに、ヴィルヘルムは額を押さえながら、今度は声を出して笑った。
「なるほど。確かにその通りだ。……だが、だからこそ信じられる」
「信じる、のですか?」
私が目を丸くすると、彼は手帳のページを指先でトントンと叩いた。
「この記録に書かれている私の判断基準と、発言の言い回し。それは間違いなく、私が思考し、私が選ぶ言葉だ。他人が想像で書けるものではない」
彼は真っ直ぐに私を見た。
その瞳には、先ほどの冷たい戸惑いはなく、論理的な思考によって再構築された確かな熱が宿っていた。
「私の記憶は、何らかの強制力によって奪われたのだろう。だが、私が君を助けようとしたという結論は、私の本質から出たものだ。記憶がなくても、私はこの記録にある通り、同じ選択をする」
ヴィルヘルムは手帳をパタンと閉じ、私に向かって静かに微笑んだ。
「ありがとう、ヨリエル。君はまた、私を救ってくれた」
その言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを必死に堪えた。
システムがどれだけ彼の記憶を奪おうと、記録と、彼自身の確固たる意思があれば、私たちは何度でも同じ場所に辿り着ける。
「……その手帳は、殿下がお持ちください。今後また同じように記憶を奪われることがあっても、それがあなたの道標になりますわ」
私がそう告げると、ヴィルヘルムは頷き、改めて手帳の表紙をめくった。
そして、彼の手がピタリと止まる。
「これは……」
彼の視線が、私が書き記した議事録の本文ではなく、その一番最初のページ……表紙の裏に書かれた一行のテキストに釘付けになっていた。
私はこの『選択記録帳』を作るにあたり、彼が彼自身であることを思い出すための基本方針として、彼が以前、舞踏会で私に告げた言葉を一番最初に書き記しておいたのだ。
『彼女を役名だけで呼ぶな』
それは、彼が与えられた役割を拒絶し、私という個人の本質を見ようとしてくれた、何よりの証拠だった。




