第16話 私の口が、勝手にヒロインを傷つける
王宮の中庭に設けられた、色鮮やかなパラソルと白亜のテーブル。
うららかな午後の日差しの中、私は優雅な茶会の席についていた。
時刻は、十三時五十九分。
(来る。あと数十秒で、私の身体が……)
ティーカップの取っ手を握る指先が、微かに震えている。
昨夜、物語運営部長の星名が私に突きつけた『自動修正』の予告。
スタッフの自由意思を奪い、システムが直接身体をコントロールするという恐怖の時間が、目前に迫っていた。
向かいの席では、ヒロインであるリリーナが、いつものように所在なさげに目を伏せている。彼女をこれから私が傷つけるのだと思うと、吐き気がした。
十四時ちょうど。
王宮の鐘が、低く重たい音を響かせた。
その瞬間、私の視界の端で業務端末が毒々しい紫色に明滅した。
カチリ、と頭の中で何かのスイッチが切り替わるような音がする。
直後、ティーカップを持っていた私の右手が、自らの意思とは全く無関係に、乱暴な軌道でテーブルの上のケーキスタンドを薙ぎ払った。
ガシャアアンッ!
陶器が割れる甲高い音に、周囲の貴族たちが一斉に悲鳴を上げる。
「ヨリエル様……!?」
驚いて立ち上がったリリーナに対し、私の身体はゆらりと立ち上がった。
止めなきゃ。謝らなきゃ。
心の中で必死に叫んでいるのに、喉は完全に別の誰かに乗っ取られたように、ひどく冷酷で甲高い声を出した。
「本当に不愉快ですわ。あなたのような平民上がりのゴミが、わたくしと同じ空気を吸っていること自体が耐えられないのよ!」
「っ……」
「ヴィルヘルム殿下も殿下ですわ! わたくしという婚約者がいながら、夜会でわたくしに暴力を振るい、あまつさえこんな女にうつつを抜かすなんて。あの男は、王太子の器ではありませんのよ!」
(違う! そんなこと、私は思っていない!)
私の口が勝手に、昨日星名が言っていた「王太子を陥れるための偽証」を周囲に撒き散らしていく。
身体はさらに前進し、震えるリリーナの胸ぐらを掴もうと腕を振り上げた。
クッションも何もない、硬い石畳の床。ここで突き飛ばされれば、彼女はただでは済まない。
私は絶望に染まった目で、リリーナを見た。
ごめんなさい。逃げて。
声にならない私の叫びを、彼女は真っ直ぐに見つめ返した。
その大きな瞳に、怯えはなかった。彼女は私の瞳の奥にある恐怖とSOSを、見事に読み取ってくれたのだ。
リリーナは悲鳴を上げる代わりに、チラリと横へ視線を送った。
それは、茶会の会場の隅で静かに待機していた、漆黒の軍服姿の青年への明確な合図。
「――そこまでだ」
低く、しかし絶対的な威厳を伴った声。
私の振り上げた腕がリリーナに届く寸前、万力のような強い力が私の手首を掴み、ピタリと空中で停止させた。
「で、殿下……!」
周囲の貴族たちが一斉に膝をつく。
ヴィルヘルムだ。彼は私の手首を掴んだまま、冷ややかな視線を周囲へと巡らせた。
「この茶会は散会とする。ヨリエルは体調が優れないようだ。私が自ら部屋まで送り届ける」
有無を言わさぬ王太子の命令に、誰も異を唱えることはできなかった。
ヴィルヘルムは私の手首を掴んだまま、強引に私を会場から引き離す。リリーナもまた、素早い足取りで私たちの後を追った。
人目のない回廊の奥へと滑り込んだ瞬間、私の視界で点滅していた紫色の光がフッと消えた。
六十秒。永遠にも感じられた自動修正の時間が、終わったのだ。
「あ……っ、ぁあ……」
身体の制御が戻った途端、私は膝から崩れ落ちそうになった。
ヴィルヘルムが慌てて私の肩を抱き止め、壁際の長椅子に座らせてくれる。
「ヨリエル様! 大丈夫ですか!」
「ごめんなさい……リリーナさん、ごめんなさい! 私、あなたを傷つけようと……」
「謝らないでください。あれは、ヨリエル様の意思ではありません。私にはわかっていました」
リリーナは私の手を両手で包み込み、きっぱりと首を横に振った。
「自分が自分でなくなる恐怖……私も、夢を見るたびに味わっています。ヨリエル様がどれほど恐ろしかったか、私にはわかります」
彼女の温かい言葉に、張り詰めていた緊張の糸が切れ、私の目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
加害者にされる恐怖。大切な同盟相手を、自分の手で壊してしまうかもしれない絶望。
もし二人が私を信じてくれていなかったら、私は間違いなく心が折れていた。
「ヨリエル。君を無理やり操っていたのは、あの『会社』の仕業だな」
ヴィルヘルムが、ハンカチを差し出しながら静かに問う。
私は涙を拭いながら、小さく頷いた。
「はい……。わたくしが、殿下を裏切る偽証の指示を断ったため、強制的に身体を動かされたのですわ」
「そうか。ならば、私が君の行動を止めたのは正解だったわけだ」
ヴィルヘルムは微かに口角を上げ、私の頭をポンと優しく撫でた。
その不器用な慰めに、胸の奥が温かくなる。
私たちは、会社の理不尽な強制力に打ち勝ったのだ。三人の連携で、悲劇の台本を一つ破り捨てた。
そう安堵した、直後だった。
「……っ!?」
ヴィルヘルムが突然、顔を苦痛に歪め、自らのこめかみを強く押さえた。
そのままバランスを崩し、片膝をついて床に倒れ込む。
「殿下!?」
「ヴィルヘルム殿下! どうされました!?」
私とリリーナが慌てて駆け寄る。
ヴィルヘルムの額には脂汗が浮かび、荒い呼吸を繰り返していた。
(これは……まさか、『修正圧』!?)
役割契約のルール。本人が役割を自覚して意図的に逆らうと、頭痛や記憶欠落などのペナルティが起きる。
ヴィルヘルムは先ほど、自動修正というシステムが描こうとした『王太子を糾弾し、ヒロインをいじめる悪役令嬢』という決定的なシーンを、自らの意思で完全に破壊してしまった。
その行為に対する強烈な修正圧が、今、彼を襲っているのだ。
「殿下、しっかりしてください! 深呼吸を……!」
私が背中をさすると、数分の後、ヴィルヘルムの呼吸はようやく落ち着きを取り戻した。
彼はゆっくりと目を開き、焦点の定まらない瞳で私とリリーナを見上げた。
「……殿下。お痛みは、引きましたか?」
私が恐る恐る尋ねると、ヴィルヘルムは少し怪訝そうな顔をして、自分の手と、私を見比べた。
「……君は、ヨリエルか? なぜ君は泣いているんだ。それに、なぜ私はこんな人気のない回廊にいる?」
「え……?」
「茶会はどうした。それに……私は今、なぜ君を慰めるような言葉をかけていた?」
背筋が、ゾクリと凍りついた。
彼の瞳には、先ほどまでの私に向ける確かな信頼の色がない。
ただ、不可解な状況に対する純粋な疑問だけが浮かんでいる。
役割契約の修正圧がもたらす、もう一つのペナルティ。
記憶の欠落。
ヴィルヘルムは、直近の出来事……私が操られていたこと、それを彼が助けてくれたこと、そして私への信頼を深めたこの一時間の記憶を、完全に失ってしまったのだ。




