第15話 好感度を下げるため、殿下を裏切ってください
自室の天蓋ベッドに倒れ込み、私は大きく息を吐き出した。
右手にはめた純白のサテン手袋をそっと外す。そこには、ヴィルヘルムの大きくて温かい手の感触が、まだ微かに残っているような気がした。
『いつか――ヨリエルではない、君の本当の名を知りたい』
すれ違いざまに落とされたその言葉が、耳の奥で何度もリフレインしている。
好感度という作られた数値ではない。彼は、悪役令嬢という役の皮を被った「私」という人間の中身を見つめ、明確に手を伸ばしてこようとしている。
「……だめよ。仕事に私情を挟んだら、ろくなことにならないんだから」
私は両手で自分の頬をパンッと叩き、思考を無理やり実務モードへと切り替えた。
今は感傷に浸っている場合ではない。宰相府の帳簿庫を開ける物理的・魔力的な鍵が、グランツ宰相の胸ポケットにある分厚い『銀の懐中時計』だと判明したのだ。
リリーナやギルベルトとも情報を共有し、どうやってあれを奪うか、具体的な段取りを組まなければ。
私が業務端末を開き、暗号化したメッセージを作成しようとした、その時だった。
ビーッ、ビーッ!
静かな寝室に、鼓膜を劈くような甲高い警告音が鳴り響いた。
半透明のパネルが真っ赤に染まり、強制的に通話画面へと切り替わる。
画面の向こう側に現れたのは、冷たい黒縁眼鏡の奥に感情のない瞳を光らせる女性――異世界人材バンク、物語運営部長の星名冴子だった。
『夜分遅くに失礼します、日下部依子さん。少しよろしいですか』
「……星名部長。こんな時間に、本社から直接の通信とは恐れ入ります」
私はベッドから身を起こし、警戒心を悟られないよう事務的な声で応じた。
『単刀直入に言いましょう。あなたの直近の勤務データは、非常に由々しき事態に陥っています。対象である王太子のあなたへの対人評価が、規定値を大きく上回っている。このままでは、三十日後の断罪式で彼があなたを糾弾する動機が弱くなり、我々がクライアントから受注した悲劇ルートの感情変動値……ひいては会社の収益が著しく低下します』
星名は手元のタブレットに視線を落としながら、まるで不良品の在庫でも数えるような冷徹な口調で告げた。
彼らにとって、ヴィルヘルムやリリーナの命も、そして私の労働も、すべては利益を出すための『数字』でしかないのだ。
「わたくしはマニュアルに従い、嫌われ役をこなしているつもりですわ」
『ええ。ですから、少し軌道修正をしていただきたいのです。好感度を下げるため、王太子を決定的に裏切ってください』
「裏切る……?」
『目前に迫った公開審問の場で、王太子から不当な暴力と脅迫を受けていたと偽証するのです。それにより、グランツ宰相が王太子を捕縛する正当な大義名分が生まれます。台詞はこちらで用意しますから、あなたはただ泣き崩れてそれを読み上げるだけで構いません』
息が止まりそうになった。
ヴィルヘルムを嘘の証言で陥れ、彼を処刑台へと送る決定打を、この私にやれと言うのだ。
私が言葉を失っていると、星名は眼鏡の位置を指で押し上げ、口角をわずかに持ち上げた。
『もちろん、これは本来の契約にはないイレギュラーな指示です。ですから、相応の対価はお支払いします』
星名の背後にあるモニターに、具体的な条件が箇条書きで表示される。
『本件を受諾し、見事シナリオを悲劇の結末へと導いてくれた場合。あなたの今回の時給を五倍に引き上げ、さらに特別ボーナスを支給します。そして――』
星名は、最も強力なカードを切るように、ゆっくりと言葉を区切った。
『このプロジェクト終了後、あなたを我が社の本社部門へ、正規の専任スタッフ……つまり『正社員』としてお迎えすることをお約束します』
正社員。
その三文字が、私の胸に重くのしかかった。
ボーナスが出ない、交通費も出ない、どれだけ理不尽な要求をされても、契約更新の時期になれば怯えなければならない。
そんな綱渡りのような派遣社員の生活から、完全に抜け出せる。家賃の更新料にも、奨学金の返済にも、もう二度と頭を悩ませることはなくなるのだ。
現代社会で冷遇されてきた私にとって、それは悪魔の契約と呼ぶにふさわしい、抗いがたい餌だった。
「……正社員、ですか」
『ええ。あなたは優秀な人材です。現地資産を消費して最高の悲劇を作る、この物語運営部の仕事は、あなたにとっても実入りの良い天職になるはずですよ』
少し前までの私なら、あるいは頷いていたかもしれない。
生活を守るためなら、他人の痛みに目を瞑り、波風を立てずに理不尽な指示に従う。それが『交換可能な人材』である私の、生き残るための処世術だったから。
でも。
『君の定時は守る。だから、明日も来てほしい』
『君が何者であれ、その行動だけが私にとっての真実だ』
脳裏に蘇るのは、不器用で、真面目で、いつも私の意思と境界線を尊重してくれた、青い瞳の王太子の顔だった。
「……お断りします」
私の口から出た声は、自分でも驚くほど低く、そして澄み切っていた。
『……今、なんと?』
「正社員の待遇は魅力的です。ですが、仕事内容をお断りしているのです。事実を捻じ曲げ、他人の命を不当に奪うための偽証など、わたくしの業務の範疇を超えています」
私は毅然と画面を見据えた。
「わたくしは交換可能な派遣社員かもしれません。ですが、どんな仕事を引き受けるかを選ぶ権利は、わたくし自身にあります」
『……日下部さん。自分が何を言っているのか、わかっていますか? これは会社からの業務命令ですよ』
「それ、契約違反です。記録します」
私は手元の端末を素早く操作し、文字を打ち込んだ。
【臨時業務報告】
・宛先:物語運営部 星名部長
・内容:王太子への偽証および不当な陥れ指示の受諾拒否。
・理由:事前契約にない違法な業務命令、および現地住民の実害を伴うため。
送信ボタンを叩きターンッと鳴った音が、静かな部屋に響く。
星名は送られてきた報告書に目を通すと、氷のように冷たい、深いため息を吐いた。
『……残念です。現場のスタッフがこれほどまでに感情移入し、我々の利益に反抗するとは』
「あなた方のやっていることは、ただの殺人教唆ですわ」
『我々にとっては、ただのデータ処理にすぎません。……スタッフの自由意思が進行の邪魔になるというのなら、システムで上書きするまでです』
星名のその言葉と同時に、私の業務端末の画面が、今まで見たこともない毒々しい紫色に明滅し始めた。
《警告:本社権限によるオーバーライドを受理》
《対象:ヨリエル・フォン・ローゼンベルクの役体》
「な、何をする気……!?」
端末から発せられる不気味な光が、私の身体をスキャンするように包み込んでいく。
指先が急に冷たくなり、自分の意思とは関係なく、ピクッと不自然に跳ねた。
《明日十四時、王宮の茶会イベントにおいて》
《ヨリエルの役体へ、六十秒間の『自動修正』を予約しました》
《適用制限:会社生成の役体に限る/最大六十秒》
《注意:時間延長は役体崩壊および外部監査用の異常ログ生成を伴います》
「自動、修正……?」
『あなたの口が勝手に動き、身体が勝手に動き、王太子とヒロインの決定的な破滅の引き金を引くでしょう。六十秒間、あなたは自分の身体という牢獄の中で、ただそれを見ていることしかできません』
星名の顔がノイズにまみれ、通信がプツリと切断される。
残された紫色のシステムメッセージだけが、空中に冷たく浮かび上がっていた。
自分の身体の制御を奪われ、強制的に誰かを傷つける役を演じさせられる。
その想像を絶する恐怖に、私は血の気を失い、ただ一人、ベッドの上で震えることしかできなかった。




