第14話 一曲だけなら、残業にはなりません
王宮の中央大広間は、幾千の蝋燭が灯るシャンデリアの光で真昼のように明るかった。
今夜は他国の使節を招いた公式な舞踏会。着飾った貴族たちが優雅なオーケストラの調べに合わせてフロアを回り、壁際には色とりどりのドレスが花壇のように並んでいる。
私は広間の隅の柱の陰で、手にしたグラスの炭酸水を一口だけ含んだ。
華やかな空気とは裏腹に、私の胃の腑は鉛を飲み込んだように重い。
(視線が、多すぎる……)
周囲をそっと窺うと、あちこちから突き刺さるような観察の目が感じられた。
一つは、私の破滅を望むグランツ宰相派の貴族たちの、獲物を値踏みするような視線。
そしてもう一つは、広間の入り口付近で直立不動の姿勢を崩さない、護衛騎士ギルベルトの冷徹な視線だ。
彼は異世界人材バンクの現地監査官として、私とヴィルヘルムが『台本』から逸脱しないよう、文字通り目を光らせている。少しでも不審な行動を取れば、すぐに強制回収の申請を出されるだろう。
断罪式まで、残された時間は少ない。
宰相を失脚させるためには、彼が王家の印を偽造し、この狂ったシナリオを会社に発注したという証拠……『宰相府の裏帳簿』を手に入れる必要がある。だが、帳簿庫の鍵のありかがどうしても掴めずにいた。
「ごきげんよう、ヨリエル」
不意に、すぐ横から低く静かな声が降ってきた。
ビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、漆黒の夜会服に身を包んだヴィルヘルムが立っていた。
金糸の髪がシャンデリアの光を反射して輝き、その完璧な美貌に、周囲の令嬢たちがほうっと熱い溜息を漏らすのがわかる。
「で、殿下……。このような壁際まで、いかがなさいましたの?」
私はギルベルトの視線を意識しながら、いかにも『王太子に執着する悪役令嬢』らしい、わざとらしい高めの声で応じた。
ヴィルヘルムは周囲の目を気にするそぶりも見せず、私に向かってスッと右手を差し出した。
「一曲、どうだろうか」
「え……」
予想外の申し出に、私は言葉を詰まらせた。
公の場で私をエスコートすれば、彼自身にも宰相派からの不必要なヘイトが向く。何より、私たちは今、監視の目の中で不用意な接触を避けるべきだ。
戸惑う私に、ヴィルヘルムは顔を近づけ、周囲には絶対に聞こえないほどの微かな声で囁いた。
「……話がある。一曲だけなら、君の言う『残業』にはならないだろう?」
その言葉に、私の胸の奥がトクンと小さく跳ねた。
彼は、私の時間の価値を知ってくれている。強引に命令するのではなく、私の基準に合わせて交渉を持ちかけてきているのだ。
「腰に触れてもいいか? もちろん、君が嫌ならすぐに引く」
あくまで私の同意を最優先にするその真摯な問いかけに、私は無言で、しかしはっきりと頷いた。
そして、彼の手の上に自分の右手を重ねる。
「……光栄ですわ、殿下」
ヴィルヘルムは私の手を取ると、優雅な足取りでフロアの中心へと私を導いた。
オーケストラが新たなワルツの演奏を始める。
彼の手が私の腰に添えられ、グッと身体が引き寄せられた。硬い胸板越しに伝わる体温と、ふわりと香る白檀の匂いに、一瞬だけ呼吸を忘れる。
「顔を上げて。不自然に見える」
「わ、わかっていますわ。……ただ、少し緊張しているだけで」
「俺の足の動きに合わせていればいい。君を転ばせたりはしない」
ヴィルヘルムのリードは完璧だった。
私がステップを間違えそうになっても、腰に添えられた彼の手が、まるで先読みしているかのように正確な方向へと私の身体を誘導してくれる。
ドレスの裾がふわりと広がり、シャンデリアの光が視界の中で美しく流れていく。
まるで、本当に絵本の中の舞踏会に迷い込んだかのような錯覚。
だが、耳元に届く彼の声は、極めて現実的で実務的なものだった。
「十一時の方向、テラスの扉の前にグランツ宰相がいる。見ずに向けるか?」
「ええ。問題ありません」
私は彼の肩越しに視線を泳がせ、ステップの回転を利用して、自然な動作で宰相の姿を視界の端に捉えた。
ふくよかな体型のグランツ宰相は、取り巻きの貴族たちと談笑しながら、手にしたワイングラスを揺らしている。
「あの男は、決して他人に隙を見せない。重要な帳簿庫の鍵を、執務室の机の中などに置き去りにするはずがないんだ」
「では、肌身離さず持ち歩いていると?」
「そうだ。宰相の服装を見て、何か違和感はないか」
私は再びターンの動作に合わせて、宰相の姿を観察した。
仕立ての良い豪奢な衣装。指にはめられた大ぶりな宝石の指輪。……いや、違う。
「……懐中時計、でしょうか」
「正解だ。大抵の貴族は、夜会では薄型の時計を好むか、そもそも従僕に時間を管理させる。だが、宰相の胸ポケットから覗くあの銀のチェーンの先にある時計は、不自然なほどに分厚く、重そうだ」
ヴィルヘルムの吐息が耳元を掠め、背筋にゾクッとしたものが走る。
「あれは時計に偽装した、特殊な魔力錠の鍵だ。あの銀の懐中時計を奪うか、あるいは型を取ることができれば、宰相府の帳簿庫を開けられる」
「……なるほど。目標の特定は完了ですね」
「ああ。君の観察眼は素晴らしい。助かった」
ヴィルヘルムが、ふっと柔らかく微笑む気配がした。
その称賛の言葉は、私の事務員としてのプライドを満たし、同時に一人の女性としての自尊心をひどくくすぐるものだった。
「そろそろ、曲が終わるな」
彼の声に合わせて、オーケストラの演奏がクライマックスの盛り上がりを見せ、そして静かに和音を引いて終わった。
最後のステップを踏み終えると同時。
ヴィルヘルムは、私を引き寄せていた手を、一切の未練を見せずにスッと離した。
「……」
その見事なまでの引き際に、私は一瞬だけ、指先に残った彼の温もりが消えていくことに寂しさを覚えた。
彼は『一曲だけ』という私との約束を、文字通り完璧に守り抜いたのだ。
王太子の権力で私を囲い込むことも、無理な要求を重ねることもなく、私の境界線を尊重してくれた。
私たちは向かい合い、公の場にふさわしい、よそよそしい礼を交わした。
踵を返し、互いに別の方向へと歩き出そうとした、まさにそのすれ違いざま。
ヴィルヘルムの唇が微かに動き、私にしか聞こえない声が落ちた。
「いつか――ヨリエルではない、君の本当の名を知りたい」
その言葉に、私の足はピタリと縫い止められた。
振り返ろうとした時には、彼の背中はすでに遠く、人混みの中へと消えていくところだった。
私は胸の奥が痛いほどに高鳴るのを押さえつけながら、早鐘を打つ心臓の音を誰にも悟られないよう、ただ無言で扇を握りしめることしかできなかった。




