第13話 泣く角度は四十五度。でも今夜は本気です
「リリーナさん。今すぐ、ヴィルヘルム殿下のところへ行きましょう」
薄暗い図書室の奥。
毒殺される夢を見て震えるリリーナの両手を握り、私はきっぱりと告げた。
「でも、私が直接殿下にそんなことをお話しして、信じていただけるでしょうか。ただの身分低い男爵令嬢が、王太子殿下の未来の死や、自分の毒殺を語るなんて……」
「大丈夫よ。殿下はすでに、自分が殺される予定日をその目で見ているわ。それに、彼は身分や役割だけで人を判断するような人じゃない」
私はリリーナの背中を押し、人目を避けるようにして王宮の奥、ヴィルヘルムの執務室へと向かった。
私の役体であるヨリエルは、表向きは王太子の婚約者だ。夜間に執務室へ押しかけても「またあの悪女が我儘を言っている」と周囲に思われるだけで、不審には思われない。悪役令嬢というポジションも、使いようによっては便利な隠れ蓑になる。
執務室の重厚な扉を叩くと、すぐに中から「入れ」という低い声が響いた。
中に入ると、ヴィルヘルムは山積みの書類から顔を上げ、私と、その後ろで縮こまっているリリーナを交互に見つめた。
室内には彼の他に誰もいない。側近のギルベルトすら外されているようだ。
「ヨリエル。それに、男爵令嬢も……。どうした、二人揃って血相を変えて」
「殿下。彼女が、新しい『夢』を見ました」
私が促すと、リリーナは一歩前に進み出た。
彼女はギュッとドレスの裾を握りしめ、震える声で、しかしはっきりと語り始めた。
「……断罪式の後、殿下が亡くなられた翌日の、夜のことです。私は暗い部屋で、見知らぬ男たちに押さえつけられ、小瓶に入った毒を無理やり飲まされました」
ヴィルヘルムの青い瞳が、僅かに見開かれる。
「……君が、毒を?」
「はい。表向きは病死として処理されるのだと思います。私は殿下に選ばれるヒロインなどではなく、殿下の失脚を決定づけた後、真実を隠滅するために消される……ただの使い捨ての駒です」
リリーナの告白が、静かな執務室に重く響き渡った。
これで、三人の結末が出揃った。
王太子は処刑。ヒロインは毒殺。そして悪役令嬢は精神崩壊による廃棄。
グランツ宰相と異世界人材バンクが手を結んで作り上げたのは、誰も救われない完全な悲劇の台本だった。
「……そうか」
沈黙の後、ヴィルヘルムはゆっくりと立ち上がり、リリーナに歩み寄った。
彼が長身から見下ろすと、リリーナはビクッと肩をすくめた。王太子に選ばれ、そして殺される運命を突きつけられた彼女にとって、目の前の男は恐怖の対象でもあるはずだ。
しかし、ヴィルヘルムは彼女の肩に触れることも、甘い言葉をかけることもしなかった。
彼はただ、臣下に向けるような、極めて誠実で真摯な眼差しで彼女を見据えた。
「恐ろしい思いをさせたな、ベルティエ男爵令嬢。だが、安心しろ。君をそのような理不尽な死に追いやるような真似は、私が絶対に許さない」
「殿下……」
「君は、私が守るべきアーデルハイト王国の臣民だ。為政者として、民一人の命も理不尽に奪わせはしない。君の安全は、私が必ず保証する」
その言葉には、恋愛感情のような甘い熱は一切含まれていなかった。
あるのは、国を背負う者としての強烈な責任感と、一人の人間としての確かな誠意だけ。
ヒロインだから守るのではない。自分の国の民だから守るのだと、彼は行動で示したのだ。
(ああ、よかった……)
私は内心で深く安堵した。
ここでヴィルヘルムがリリーナに恋愛的な庇護欲を向けてしまえば、事態はややこしい三角関係に陥っていた。
しかし彼は、境界線をきっちりと引き、彼女を保護すべき対象として尊重してくれた。これなら、私たち三人は余計な感情のもつれなく、完全に一枚岩の同盟を組むことができる。
ヴィルヘルムの言葉を聞いたリリーナの瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私……ずっと、怖くて……。家族を人質に取られて、誰を信じていいのかもわからなくて……」
リリーナは両手で顔を覆い、しゃくり上げながら泣き崩れた。
私は彼女の隣に並び、その華奢な背中をゆっくりと撫でた。
「……泣く角度は、一番可哀想に見える四十五度って決めていたのに……」
嗚咽に混じって、彼女がぽつりとこぼした言葉に、私は思わずふっと笑みをこぼしてしまった。
「顔がぐしゃぐしゃです。こんなの、ヒロインの涙じゃない……」
「いいのよ。誰かに見せるための涙じゃないんだから。今夜は本気で泣いていいわ」
私がそう言うと、リリーナは私のドレスの袖をギュッと掴み、さらに大きな声で泣き声を上げた。
悪役令嬢の腕の中で、ヒロインが本気の涙を流してしがみついている。
傍から見れば奇妙な光景だろう。しかし、私たちにとっては、これが台本を破り捨てて本物の連帯を手に入れた、確かな証明だった。
しばらくして、リリーナがようやく泣き止み、腫らした目をこすりながら立ち直った。
「お見苦しいところをお見せしました。……それで、私たちはどうすればいいのでしょうか。宰相の計画を止めるには、断罪式そのものを防ぐしかありませんよね?」
「ああ。だが、状況は私たちが思っている以上に悪い」
ヴィルヘルムは執務机に戻り、重々しい声で告げた。
その深刻なトーンに、私とリリーナの表情も引き締まる。
「断罪式という公の場で、私の王位継承権を剥奪し、君との婚約を破棄させる。それを法的に成立させるためには、どうしても必要なものがある」
「必要なもの……?」
「『王家の印』だ。国王の署名と、あの印が捺された公文書がなければ、いかに宰相といえど王太子を廃嫡することはできない」
私はハッとした。
現代の契約でも同じだ。どれだけ書類を整えても、代表印がなければ法的な効力は持たない。
逆に言えば、その印さえ渡さなければ、私たちは決定的な破滅を免れることができる。
「それなら、その印を厳重に守ればいいのでは? 国王陛下が持っていらっしゃるのでしょう?」
私の問いに対し、ヴィルヘルムは苦渋に満ちた表情で首を横に振った。
「……いや。父上の病室を密かに調べさせたが、印はすでに保管庫から消えていた」
「え……?」
「確証はないが、おそらくグランツ宰相の手の者がすでに持ち出した後だ。つまり、断罪式を成立させるための物理的な条件は、すでに宰相の手に渡っているということになる」
絶望的なタイムリミットの足音が、すぐそこまで迫っていた。
証拠も、権限も、何もかもが敵の手の中にある。
私たちは丸腰のまま、刻一刻と迫る死の舞台へと引きずり出されようとしていた。




