第一話 また連絡します
「また連絡します」
彼は、電話の最後にそう言った。
たったそれだけの言葉だった。
けれど私は、その言葉を聞いた瞬間、少しだけ嬉しくなった。
「うん。またね」
電話を切る。
暗くなったスマートフォンの画面に、自分の顔がぼんやり映っている。
私はしばらく、その画面を見つめていた。
また連絡します。
それは、約束と呼ぶにはあまりにも軽い言葉だった。
いつ、とは言っていない。
何をする、とも言っていない。
ただ、また連絡する。
それだけ。
なのに私は、その言葉の中に小さな未来を作っていた。
次はいつ会えるだろう。
何を食べるだろう。
またくだらない話をして、帰り際に「楽しかったですね」と言ってくれるだろうか。
彼との時間は、いつもそんなふうだった。
劇的なことは何も起こらない。
手をつなぐこともない。
好きだと言われることもない。
帰り道に振り返って目が合うことすら、あまりない。
それでも私は、彼といる時間が嫌いではなかった。
むしろ、好きだった。
彼は私に無理をさせなかった。
距離を詰めすぎない。
変な期待を持たせるようなこともしない。
私が話せば聞いてくれる。
笑えば笑ってくれる。
帰ったあとには、
「今日は楽しかったです」
と、短いメッセージをくれる。
それだけだった。
それだけなのに、私はその「それだけ」を大切にしていた。
⸻
彼と知り合って、二年ほどになる。
その間に何度も会った。
ご飯を食べたり、電話をしたり、どこかへ出かけたり。
でも、関係はずっと同じところにあった。
友達。
その言葉が、一番しっくりくる。
そして一番、苦しかった。
私はときどき思う。
もし彼が私のことを好きだったら。
もし彼から誘ってくれたら。
もしLINEの返事がもう少し早かったら。
もし帰り際に、ちゃんと目を見て「また会おう」と言ってくれたら。
その「もし」が一つでも叶えば、私はきっと、自信を持って彼を好きになれた。
けれど現実の彼は、いつも少し遠かった。
近づけば近づくほど、手のひらからこぼれていくような距離にいた。
それでも私は、自分から誘った。
会いたいと思った日は、会いたいと言った。
電話もした。
そうしているうちに、私はふと考えるようになった。
――私ばかりじゃない?
その疑問は、一度生まれると消えてくれなかった。
⸻
ある日の帰り道。
私は彼の隣を歩いていた。
今日も、特別なことはなかった。
話は途切れたり、続いたりした。
沈黙もあった。
昔なら、その沈黙を「落ち着く」と思えた。
今は少しだけ、怖かった。
彼の横顔を見る。
何を考えているのかわからない。
私のことをどう思っているのかも、わからない。
聞けばいいのに、聞けなかった。
「私のこと、どう思ってる?」
そんなことを言ってしまったら、今ある関係まで壊れてしまいそうだった。
だから私は、何も言わなかった。
駅に着く。
「じゃあ、また」
彼が言う。
「うん。またね」
彼はそのまま歩いていく。
私は少しだけ、その背中を見送った。
振り返ってくれないかな。
ほんの一瞬でいい。
そう思った。
けれど彼は振り返らなかった。
私はスマートフォンを取り出した。
まだ何も届いていない。
当然だ。
今、別れたばかりなのだから。
それでも、少し待ってしまう。
「今日は楽しかったです」
そんなメッセージが来るかもしれない。
そして私は、その一言だけで、今日の時間を肯定してもらえる気がするのだ。
⸻
家に帰ってしばらくすると、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
彼からだった。
短いメッセージ。
今日も楽しかったです。
私は思わず笑った。
単純だな、と自分でも思う。
たった十数文字。
それだけで、一日の終わりが少し明るくなる。
私は返信を打つ。
「私も楽しかった。また行こうね」
送信。
既読。
返事は来ない。
私はスマートフォンを伏せた。
きっと忙しいのだろう。
そう思った。
それから数分後、また画面を開く。
何もない。
さらに数分後。
やっぱり何もない。
私は小さく息を吐いた。
――まただ。
彼はいつも、少し遅い。
私はいつも、それを気にしてしまう。
本当は、気にしたくない。
もっと自由に好きでいられたらいいのに。
返事が遅くても、
誘ってくれなくても、
目が合わなくても、
「まあ、彼はそういう人だから」
と笑っていられたらいい。
でも私は、もう少しだけ欲しくなっていた。
友達以上の何かを。
⸻
数日後、私たちは電話をした。
話の途中で、以前話していた漫画のことが出てきた。
「そういえば、何巻まで読みましたっけ?」
彼が聞く。
「えっと……たぶん、そこまで」
私は答えた。
彼は少し考えて、
「ちょっと確認してみます」
と言った。
そして電話の最後。
「また電話しましょう」
彼はそう言った。
私は笑って、
「うん」
と答えた。
「また連絡するんで、待っててください」
その言葉に、胸が少しだけ跳ねた。
待っててください。
そんなふうに言われたら、待ってしまう。
私は電話を切ったあと、布団の中でスマートフォンを握った。
明日かな。
明後日かな。
一週間後かな。
そんなことを考えながら、私は目を閉じた。
――また連絡します。
あの言葉を、私は信じていた。
そのときの私はまだ知らなかった。
「また連絡します」という言葉が、
誰かにとってはただの言葉で、
誰かにとっては小さな約束で、
そして誰かにとっては、
その人を待ち続ける理由にさえなってしまうことを。
私はまだ、
彼を諦める準備なんて、
少しもできていなかった。




