第6話 初めましてダウズウェル
ダウズウェル辺境伯領は、国境をなぞるように山岳地帯を長く伸びている。
ダウズウェルの紋章を付けた三台の馬車は山道を抜け、赤い煉瓦で積み上げられた街並みを抜け、辺境伯の屋敷、厳密には城へと近づいた。
外をぼんやりと眺めていたエレノアは、馬車が全く速度を緩めずに城門を通過したのを見た。
隣に座るローデリックを目だけ動かして見上げたが、彼の視線はエレノアの頭の上から外を見ていたので視線が合うことはない。
馬車が止まって少しして、ローデリックの側から、閣下、と呼びかける男の声がした。
「俺がそちらを開ける、勝手に降りるな」
エレノアの返事を待たずにローデリックが外へ出て、扉が閉まる。その一瞬、扉の外にいた使用人らしき男が頭を下げたのが見えた。
体面を求めて結婚したらしい辺境伯は振る舞いに気を使っているらしく、放置されるという予想に反してあれこれと口と手を出してくる人だった。
そしてエレノアはというと、旅の間中、ローデリックの指示のすべてに素直に従っている。
それには、ごく浅い理由があった。
ローデリックの言う体調次第は、馬車での高速移動についてだった。
エレノアは耐え切れず、速度を落とし休憩を挟みながらの旅程は一日延びて四日かかった。それでもエレノアからすると無茶な移動速度だったと思う。
現に今、馬車が止まっているのに動いている感覚が消えない。胸は詰まるようで、口の中は妙に冷たい。
エレノア、と外でローデリックの声がしてから、扉が開かれる。
表情を変えないローデリックが差し出してきた手に彼女は手を重ねた。手を引かれるままに馬車の外に足を出す。
踏み台に足を置いてから外へ踏み出すと、くらりと目が回った。
差し出された手とは別の手がエレノアの肩に触れて支えてくれ、申し訳ありません、と呟くと、いい、と短く声が返る。
ローデリックに抱えられるようにして地面に足をつけると、恐る恐る顔をあげて辺りを見回した。
妻を連れて戻る、という連絡が届いているようで、車止めの近くには使用人が何人も集まっていた。使用人ではなさそうな、身なりが上等な男性も何人か混じっている。
「あの、なんて挨拶したら……」
ローデリックに尋ねると、彼は黙ってエレノアを見下ろした。まだ手を重ねたままだし、肩にも彼の腕が回ったままだ。
「顔色が酷い、休め。挨拶は後だ」
「でも。いいのですか?」
いい。
呆れたのかため息混じりにまた短く言ってから、彼はようやくエレノアの腰を解放した。
「ミシェル。部屋で休ませろ」
ローデリックはもう当然という調子でエレノア付きの侍女を呼び、エレノアの背をそちらへ向けて軽く押した。力なく一、二歩進んでしまった体のすがる先は夫から侍女に変わる。
辺境伯が年かさの使用人を呼んで、エレノア達を部屋に連れていくよう指示をした。
「アラン、バート。執務室だ」
ローデリックに応えて一際身なりのいい男性と、一際逞しい男性が頷くのが見えた。
挨拶なしで本当にいいのだろうか、とローデリックを見上げたが、彼は行け、と案内役の使用人の方を指さして逆の方へ歩き出してしまった。
「奥様、ひとまずお部屋へご案内します」
近くで使用人がそう言ったのが聞こえる。
一拍置いてミシェルが、お嬢様、と囁いたのでようやくエレノアはローデリックの小さくなった背中から視線を外した。
「奥様というのはお嬢様のことです」
ミシェルがこっそりと耳打ちしたので、エレノアは瞬いてから頷いた。
「お嬢様であり奥様でもある……」
「それは後でお聞きしますから、返事をなさってください」
ミシェルの囁きに急かされ、使用人に向かって姿勢を正すと、お願いします、とそう言った。微笑んだ自分をイメージしてみたが伝わっているかは微妙なところだ。
紹介されなかった使用人達が遠くからちらちら見ているのを感じる。
ミシェルに支えてもらいながら、歩く部屋への道は妙に長かった。
***
ダウズウェル辺境伯夫人の居室は日当たりが良かった。
大きな窓からは柔らかい陽射しが差し込んでおり、広い部屋にも関わらず全体が明るかった。落ち着いた深緋の絨毯は柔らかで、大きな寝台は絹の艶に覆われている。
エレノアは落ち着かずに部屋中を見渡した。
伯爵令嬢と辺境伯夫人では部屋の規模も調度品もまさに格が違うらしい。
「贅沢すぎないかしら、それに、どれも新しいものに見える」
ドレッサーの他に、やはり机がある。小さいが本棚もある。
そしてそのどれもが、真新しいことを示す微かな塗装の匂いと艶がある。
「こんなに用意してうちの持参き……ではなくて、フリンツフッドの負担にならないといいのだけど」
言いかけた言葉をなんとか引っ込めるとミシェルがよろしい、と頷いた。
「うち。は、もうダウズウェルですね」
言い直すように呟いたエレノアにはい、とミシェルが応える。
隣の衣装部屋には今持ち込んだばかりの衣装ケースしかないのを見て、ミシェルは眉を吊り上げていたが、エレノアは気にしなかった。
あくまでも義務として、体面のための妻だ。
それにあまりにも急だった。整っている方がおかしい。
自分の部屋を物珍しさで物色しながら一回り二回り、空っぽの本棚を触って確かめ、そろそろミシェルから小言をもらいそうになったとき、四十代と思われる使用人の女が紅茶を運んできた。
エレノアがなんとなく天蓋の裾に同化している間にミシェルは荷物の中から蜂蜜の瓶を取りだし、茶器一式を置いた女は静かに出て行った。
「お嬢様?」
「今まで隠れる必要があったからつい……」
少し気まずそうにエレノアは真新しいソファに腰を下ろし、用意された紅茶にフリンツフッドから持参した蜂蜜をこれでもかといれる。
エレノアは部屋の中を見渡した。
ミシェルしかいないのを確認してから、それにしても、と口を開く。
「お茶の用意にすごく時間がかかる気がする。広いから大変なのかしら」
「そんなに遅くはありませんよ。お嬢様はこちらに慣れていないのですから、根掘り葉掘り聞かないようになさってください」
入れすぎです、と言われてエレノアは手を止めた。
とろりとした琥珀色の水面に自分の顔が微かに映っている。
「皆に挨拶ができなかったけど本当に大丈夫かしら。ローデリック様、後悔してらっしゃるかも」
「後悔なさるとしたら予め計画しておかなかったご自身にでしょうね」
瞬いたエレノアの肩に、冷めないうちにどうぞ、と言いながら侍女がショールをかけた。
紅茶はほぼ蜂蜜味ではあるが、フリンツフッドと変わらない。ほっと息をはく。
「お嬢様が売り込んで妻にしていただいた訳じゃありませんもの。全ての責任は旦那様にあります。それを飲んだら少しお休みください」
促されるまま、紅茶で温めた体を寝台に横たえる。質の良い寝具は柔らかで、寝返りを打つたびに肌に触れるのが心地よい。
微睡んでいる間に、そばでミシェルと誰かと話しているのが聞こえたが、内容を追い切れないままエレノアの意識は沈んでいった。




